日本歴史地名大系 「下岡村」の解説 下岡村しもおかむら 京都府:竹野郡網野町下岡村[現在地名]網野町字下岡高天(たかてん)山を主峰とする一連の山の麓に沿って細長く発達した村。北側は開けて、福田(ふくだ)川沿いの沖田となっているが、かつてこの地は浅茂川(あさもがわ)湖の一部であった。中世末の丹後国御檀家帳に「木津のしもおか」とみえ、すみの左衛門・二羽清兵衛尉以下一七名が記される。この呼称から、下岡村が中世木津(きつ)庄に含まれていたことが考えられる。慶長検地郷村帳に高一〇四二・八石「下岡村」とみえるが、延宝三年郷村帳では、下岡村地内であった浅茂川村が別に高付されているので下岡村は七四二石余となり、延宝九年(一六八一)の延高で七九四石余となった(天和元年宮津領村高帳)。 下岡村しもおかむら 栃木県:下都賀郡岩舟町下岡村[現在地名]岩舟町下岡北は上岡村、東は西(にし)山を隔て三谷(みや)村、西から南にかけては安蘇(あそ)郡古江(ふるえ)村。三杉(みすぎ)川が南流している。観応元年(一三五〇)八月二〇日の阿曾沼秀親譲状(小山文書)に佐野庄内「下大賀」とみえ、当地に比定される。慶安郷帳に村名がみえ、田三五二石余・畑三五二石余・野七斗余(ただし都合高は四二六石余とある)。江戸時代を通して下総古河藩領。天保(一八三〇―四四)頃の古河藩領村明細帳(茨城県潮田文書)によれば高四八五石余、うち新田一石余、反別田三一町五反余・畑一八町五反余、取米一六四石余・永二四貫余、小物成五貫余、夫永三貫余、大豆一斗余、家数三八、男八二・女八七、馬八。 下岡村しもおかむら 兵庫県:城崎郡香住町下岡村[現在地名]香住町下岡丹生地(にゆうじ)村の南、佐津(さづ)川の中流域に位置し、北流する土生(はぶ)川が村の北部で佐津川右岸に合流する。本村集落は佐津川と土生川に挟まれた低地の南側微高地に形成され、本村の北西、佐津川の左岸に西下岡の集落がある。南西は上岡村。古くは上岡村と一村で岡村といったと思われる。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「おか村」とみえ、岡村には「うつか」(兎束か)殿・三郎兵衛殿などが住んでいた。近世の領主の変遷は丹生沖浦(にゆうおきのうら)村に同じ。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)に村名がみえ、高二二八石余。 下岡村しもおかむら 高知県:幡多郡大正町下岡村[現在地名]大正町下岡上岡(かみおか)村の西方、仁井田(にいだ)川に北から流入する下岡谷の出口、仁井田川北岸にある。上山(かみやま)郷上分(かみぶん)の一村。「土佐州郡志」は「東限上岡村、西限四手川、南限巨宇登宇之野、北限芳川村、東西二十町南北二里、戸凡九、其土黒雑砂」と記す。慶長二年(一五九七)の上山郷地検帳に村名がみえ、検地面積は二町八反余、屋敷数は一二、うち居屋敷九。ほかに切畑若干がある。大部分は上山惣吉・上山宗吉良の給地で悟性(ごしよう)寺(五松寺)領が若干ある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by