日本歴史地名大系 「下紺屋町」の解説 下紺屋町しもこんやまち 新潟県:上越市旧高田市地区高田城下下紺屋町[現在地名]上越市本(ほん)町七丁目下小(しもご)町の北に続く町で、本町(ほんまち)通(北国街道)は当町中ほどで東折。東は善光寺(ぜんこうじ)町に続き、その境が北国街道(奥州街道)と北陸街道(加賀街道)の追分で、明治維新まで道標が立っていた(頸城郡誌稿)。町の北端の本覚(ほんがく)寺門前および本町通から分れて西方土橋(どばし)町に至るまでの一帯を肴(さかな)町あるいは横手(よこて)といい、本覚寺門前を別に袋(ふくろ)町とも称した。肴町の称は四十物の小売商が多かったことによる。元来当町は紺屋の同業者町として成立したもので春日山(かすがやま)城下時代以来の由緒をもち、正徳年間(一七一一―一六)の高田町各町記録(榊原家文書)に「下紺屋町と申名由緒、春日山以前染屋十七軒有之ニ付而紺屋町と付来り申候由申伝候」とある。 下紺屋町しもこうやまち 岡山県:津山市津山城下下紺屋町[現在地名]津山市下紺屋町美濃職人(みのしよくにん)町・鍛冶(かじ)町の北裏にあたり、紺屋町(こんやまち)溝南側に沿って東西に延びる通りの北向片側町。東は元魚(もとお)町、西は上紺屋町・細工(さいく)町、北は紺屋町溝を隔てて田(た)町の侍屋敷。「武家聞伝記」寛永一六年(一六三九)条に「片原紺屋町」、元禄町絵図に「片原コンヤ町」とある。嘉永町絵図では下コンヤ町と記す。元禄一〇年(一六九七)の家数等改帳では下紺屋町上下として家数三四、本役二二軒四分、町筋東西一一二間二尺・通道町幅二間四尺五寸。同年の人数改帳によると六一八人、安政五年(一八五八)には一五六人(町奉行日記)。 下紺屋町しもこやまち 京都府:福知山市福知山城下下紺屋町[現在地名]福知山市字下紺屋上紺屋町より北に続く町で、東は菱屋町(ひしやまち)、西は西町(にしまち)、北は寺町(てらまち)筋に突き当るが、地籍は由良川堤防までの両側町。有馬豊氏時代(慶長―元和)の福智山城之絵図ではのちの下紺屋町を永領寺(えいりようじ)横町付近で南北に分ち、北半を下紺屋町、南半を中紺屋町としている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by