下関村(読み)しもせきむら

日本歴史地名大系 「下関村」の解説

下関村
しもせきむら

[現在地名]関川村下関

北方をあら川が西へ流れ、川沿いに米沢街道が東西に通る。東は上関村、西は辰田新たつたしん村に接する。建治三年(一二七七)一一月五日の茂長宛高井道円(時茂)譲状(三浦和田氏文書)に「せき」とみえる。この地は道円の妹の子三浦胤氏へ譲られた地で(「越後国奥山庄北方伝来次第」同文書)、胤氏の子孫はのち関氏を名乗った。同地は奥山おくやまきた条に含まれ、北条の惣領茂長の統制下に置かれたらしく、道円譲状では「四郎かさたゝるへし」とある。康永二年(一三四三)一二月二六日の室町将軍家(足利尊氏)下文(同文書)には「奥山庄内関郷」とみえ、勲功の賞として三浦道祐に宛行われている。道祐は三浦介を名乗る佐原系の三浦貞宗で、一時期関郷は関氏の手を離れたと推定される。貞治三年(一三六四)茂実の子時実は関郷と高野たかの(現北蒲原郡中条町)は故道円跡として自身が管領する地であると庶子家関孫三郎、高野重有らを訴え、両地の領有を主張した(同年四月日「黒川時実重申状」同文書)。この訴訟の結果は不明。享徳元年(一四五二)正月一一日には黒川氏実の先祖道円相伝の文書一通、道円置文および高野・関郷の支証一切を紛失したという主張を認める守護上杉房定安堵状(三浦和田黒川氏文書)が出された。翌二年一二月の黒川氏実当知行所領目録(三浦和田氏文書)には黒川条、高野・関両郷が記され、文明二年(一四七〇)には関郷庶子分の氏実の知行が安堵され(同年一一月八日「越後守護上杉房定安堵状」三浦和田黒川氏文書)、関郷は惣領黒川氏の手に入った。同四年一一月四日付黒川氏実宛の守護上杉房定の執事飯沼定泰書状(同文書)には氏実当知行の所領に関する文書を所持している者は成敗するようにとあり、黒川氏の当郷領有は守護の後ろ盾により実現したことをうかがわせる。


下関村
しもぜきむら

[現在地名]高岡市下関・下関町・白金町しろがねまち末広町すえひろまち高陵町こうりようまち定塚町じようづかまち東下関ひがししもぜき関大町せきおおまち清水町しみずまち二丁目・駅南えきなん一―五丁目など。

高岡町の南、上関村の北方、鴨島かもじま村の東方に位置。村名はかつて関野とよばれた野に村立てされたことによる(越中志徴)。初めは下関野しもぜきの村と称された(「加越能御絵図覚書」加越能文庫)。寛永一二年(一六三五)津田勘兵衛の給人知行地三一石余があり、先免三ツ二歩、去年免五ツで同年からは六ツに増免された(「襍纂録」加越能文庫)。慶安二年(一六四九)から万治三年(一六六〇)瑞龍ずいりゆう寺屋敷高五石余・御旅屋屋敷高一石余・高岡町付足軽屋敷高六石余、承応元年(一六五二)瑞龍寺掃除人扶持高七四石余があった(「高岡廻村々委細帳」折橋家文書)


下関村
しもぜきむら

[現在地名]坂井町下関

坂井平野中央部北東寄りに位置し、南北に通る北陸街道を挟み東西に細長い集落を形成する。「越前地理指南」は枝村として安光やすみつ中村なかむら少路しようじを記し、「越前国名蹟考」はさらにせんはしを加える。

村名は寛永一五年(一六三八)の十郷横落長江堀間数割(大連家秘簿)に「下関村」とみえるが、「大乗院寺社雑事記」文明二年(一四七〇)七月一四日条に「河口庄郷々内村名」としてせき郷の村に「中村」「小路村」「つるまる村」が記され、村域内地籍に比定されている。


下関村
しもせきむら

[現在地名]湯沢市下関

雄物川右岸の河岸段丘上にある街村。南西上関かみせき村、西は雄物川を隔てて山田やまだ村、北は関口せきぐち村に接する。

享保一四年(一七二九)の雄勝郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)には、

<資料は省略されています>

とあり、この時期以前の上関・下関両村の藩の帳簿上の記載について述べている。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には関村五六五石とある。宝永二年(一七〇五)の雄勝郡村々御黒印高牒(秋田県庁蔵)には「関村上下」とあり、高は本田五七七石二斗六升五合、新田四四三石九斗五升三合、計一千二一石二斗一升八合、当高一千一七四石六斗九升六合。享保八年の雄勝郡郡村本村支村御高共調帳(秋田県庁蔵)には「関村上下、上関家数四拾壱軒、下関家数五拾壱軒」とあり、当高は前に同じ。


下関村
しもぜきむら

[現在地名]本山町下関

現本山町東端部に位置し、東は葛原かずらわら(現大豊町)行川なめがわ山より南流する行川が東流する吉野川に合流する地までの東側にある。村の南部、吉野川沿いを土佐街道(北街道)が通る。天正一七年(一五八九)の本山郷地検帳には「下関名」とみえ、検地面積六町五反□(二か)六代二歩、うち田分二町四反三代一歩、畠分一町六反九代一歩、屋敷数二二で二町五反一四代。公事分と名本分からなる。同年の本山郷高山切畑地検帳によれば一〇筆三反二一代の名本分と、八筆四反三九代二歩の公事分があり、名本分には大麦・小麦・豌豆、公事分にはすべて小麦の記載がみられる。

天和三年(一六八三)一一月一五日付御留山改帳(「日本林制史調査史料」所収)によると村内には行川山・地吉山の二ヵ所の留山があり、名本高橋孫兵衛が留山の山守役を兼務、百姓三人役を給せられていた。


下関村
したせきむら

[現在地名]君津市加名盛かなもり

上関うえせき村の北、小櫃おびつ川左岸に立地。貞享元年(一六八四)の酒井忠挙領知目録(酒井家文書)に村名がみえ、上野前橋藩領。元禄郷帳では上関村枝郷下関村とあり、高一八石余。天保郷帳では高二二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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