上関村(読み)かみのせきむら

日本歴史地名大系 「上関村」の解説

上関村
かみのせきむら

[現在地名]上関町大字長島ながしま

熊毛半島の先端、西海上に位置し、東北から南西に長い島。長島といい上関本島とも称する。東北部には上盛かみさかり山がそびえ、島のほとんどが丘陵地。近世は大島郡で、上関宰判に属した。

「延喜式」(兵部省)にみえる周防国竈合かまい馬牧はこの長島をさす。上関は古く竈戸かまど関とよばれたが、これは地形が竈に似ていたところから名付けられた(注進案)竈戸関賀茂別雷かもわけいかずち神社(現京都市北区)の荘園であった。

上関の名は、室町時代の遣明使節・勘合船に関する主要記録を収録した「入明諸用例」の「第五応仁二年戊子入明員件」の可成渡唐船分として「上関薬師丸 五百斛」とあるのが早く、同じく唐船事として「上関薬師丸 七百石」とみえる。文明三年(一四七一)朝鮮の申叔舟の記した「海東諸国紀」に、

<資料は省略されています>

とみえ、大内氏はこの上関を海駅としていたことがわかる。細川幽斎の「九州道の記」(天正一五年)に「十一日(七月)暁、田じ(ま)を出て其日は上の関と云所に船をかけて、明行空をもまたで、塩にひかれて船出をもよほし行くに」とある。

中世、上関は三島水軍村上衆のうち、(現愛媛県越智郡)の村上衆の根拠地となった。村上氏はここに海関を設けて帆別銭を徴集。大内義長の時、おお(屋代島)の宇賀島衆によって一時この地を追われたが、再び村上氏が代わった。厳島合戦の翌弘治二年(一五五六)浦宗勝は、この村上氏を誘い、毛利氏の勢力のもとに周防の経略にあたった。


上関村
かみせきむら

[現在地名]関川村上関

あら川左岸に位置し、東方で大石おおいし川が荒川に合流する。東は下川口しもかわぐち村、西は下関村に接し、荒川沿いに東西に米沢街道が通る。鎌倉初期にかつら関が置かれた地と伝える(越後野志)。建治三年(一二七七)一一月五日の茂長宛高井道円(時茂)譲状(三浦和田氏文書)に「せき」とみえる。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「色部分せきかわくち村 下」と記され、本納二九石五斗・縄高一三九石三斗三升六合、家数二二。また大石川寄りに「色部分六本村」がみえ、本納五斗・縄高七石五斗九升二合六勺、家数一とある。

近世は初め村上藩領、宝永六年(一七〇九)以降幕府領。慶長一九年(一六一四)村上忠勝による宿継ぎ定書(渡辺家文書)に「上関村」とみえ、旅人荷物の運送は当村と下関村とで一五日替りに行うよう決められた。万治二年(一六五九)検地帳(同文書)によれば高二六四石七斗余・反別二七町一反九畝余。


上関村
かみぜきむら

[現在地名]高岡市上関・東上関ひがしかみぜき高陵町こうりようまち泉町いずみまち鐘紡町かねぼうまち・上関町・清水町しみずまち三丁目・定塚町じようづかまち蓮美町はすみまち東下関ひがししもぜき関大町せきおおまち駅南えきなん一―五丁目・新寺町しんてらまち神田新町かんだしんまちなど

千保せんぼ川右岸、高岡町瑞龍ずいりゆう寺の西に位置。村名はかつて関野とよばれた野に村立てされたことによる(越中志徴)正保郷帳では高四〇二石余、田方二一町五反余・畑方五町二反余、新田高三三六石余。承応元年(一六五二)瑞龍寺掃除人扶持高一一石余、同三年高岡稲荷神社拝領高一二石五斗、明暦二年(一六五六)瑞龍寺屋敷拝領高五八石余(「高岡廻村々委細帳」折橋家文書)。同年の草高七七二石(村御印留)


上関村
かみぜきむら

[現在地名]坂井町上関

下関しもぜき村の南、坂井平野中央部東北寄りに位置し、北陸街道沿いにある。南垣内みなみがいち・北垣内・島田しまだの集落よりなる。正保郷帳や元禄郷帳では島田村と記され、天保郷帳に上関村とみえる。中世には奈良興福寺領河口かわぐち庄内のせき郷に含まれ、「大乗院寺社雑事記」文明二年(一四七〇)七月一四日条に「河口庄郷々内村名」として関郷のうちに「嶋田の村」とある。

正保郷帳によれば田方一千四〇四石余・畠方一五〇石余。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となり、文政三年(一八二〇)再び福井藩領となる。


上関村
かみせきむら

[現在地名]湯沢市上関

雄物川の東岸を通る羽州街道沿いに街村状に発達する。北は下関しもせき村、東は東鳥海ひがしちようかい山の峰続きの山越え稲庭いなにわ村(現雄勝おがち郡稲川町)、南は相川あいかわ村、西は雄物川を隔てて逆巻さかまき村・山田やまだ村と接する。村のなべさわ阿弥陀堂には正和五年(一三一六)、貞和三年(一三四七)、延文五年(一三六〇)の銘をもつ板碑がある。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に関村五六五石とある。宝永二年(一七〇五)の雄勝郡村々御黒印高牒(秋田県庁蔵)には関村上下とあり、高は本田五七七石二斗六升五合、新田四四三石九斗五升三合、計一千二一石二斗一升八合(当高一千一七四石六斗九升六合)


上関村
かみぜきむら

[現在地名]本山町上関

行川なめがわ山より南流する行川が、東流する吉野川に合流する地までの西側にある山村。東は下関村、西は北山きたやま村。南は吉野川を挟んで木能津きのうづ村。南東は介藤すけとう村。村の南部、吉野川沿いを土佐街道(北街道)が通り、対岸木能津村への船渡しがあった。天正一七年(一五八九)の本山郷地検帳に「上関名」とみえ、検地面積九町四二代一歩、うち田分二町四反四三代二歩、畠分三町九反一九代二歩、屋敷数二七で二町六反二九代三歩。


上関村
うわせきむら

[現在地名]西根町上関

鹿角かづの街道に沿う小村で、北は帷子かたびら村、西は荒木田あらきだ村、南は堀切ほりきり村。子飼沢こかいざわ山に発する荒木田川が当村中央で帷子村から南流するりよう川と合流する。近世初期に荒木田村の枝村として開拓され、のち一村として独立したと考えられる(西根町史)。元和元年(一六一五)一二月二三日厨川兵部少光忠が当村で一〇〇石を与えられている(参考諸家系図)。寛永四年(一六二七)一二月一五日には舟越与兵衛が一一〇石余を当村で得ている(「南部利直知行宛行状」盛岡舟越文書)


上関村
うえせきむら

[現在地名]君津市加名盛かなもり

せき村の南東、小櫃おびつ川左岸に立地。貞享元年(一六八四)の酒井忠挙領知目録(酒井家文書)に村名がみえ、上野前橋藩領。以降の領主の変遷は向郷むかいごう村に同じ。元禄郷帳では高二一石余、天保郷帳では高二四石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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