日本大百科全書(ニッポニカ) 「不安の哲学」の意味・わかりやすい解説
不安の哲学
ふあんのてつがく
philosophy of anxiety 英語
Philosophie der Angst ドイツ語
philosophie d'angoisse フランス語
人間の理性に信頼を置いてきた近代哲学が挫折(ざせつ)したことによって生じた哲学の一つ。キルケゴール、シェストフ、ハイデッガーらの哲学がその代表。キルケゴールの『不安の概念』(1844)によれば、不安とは人間の根源的な自由が体験するめまいである。人間は理性や知性など特定のあり方で本質を規定することのできる実体存在ではなく、心と身、可能と必然、永遠と時間、無限と有限など、相反するさまざまな要素をもつ関係存在である。人間はこれらの諸契機を自分なりに主体的に関係づけながら自己を形成していく自由な存在である。そして、自由であるということは、特定の本質をもたないという無のなかにいることとなり、無を前にした気分が不安をよぶのである。キルケゴールは、人間の根本気分であるこの不安をキリスト教の原罪と結び付け、神に背く人間が神との正しい関係を取り戻すことによってのみ、この不安を克服することができる、と説く。また、シェストフによれば、近代の理性的な科学や理性的な道徳も、一皮むけばその下には背理と絶望の悲劇の領域が顔を出す。皮相の科学や道徳を突き抜けたこの深い現実のなかで、人間は虚無にさいなまれる不安によって鍛えられ、初めて真の人間らしい積極性を生み出していくことができるのである。さらに、ハイデッガーは『存在と時間』(1927)において、不安を分析することを通じて、人間にとっての存在が本来的には時間的な性格によって意味づけられることを示した。人間は自分の存在を未来へ向かって自分で規定していく自由をもつ。しかし、自由な可能性として存在しているそのことは、自分で選び取ったことではなく、不条理にも過去以来そうした仕方で投げ出されている。そして、わけもなしに自由であるそのことを、そのつどの現在ごとに人間が理解するとき、人間は不安の気分に襲われる。不安は存在のこのような時間性を露呈せしめるのである。
[柏原啓一]
『キルケゴール著、斎藤信治訳『不安の概念』(岩波文庫)』▽『ハイデガー著、桑木務訳『存在と時間』全三冊(岩波文庫)』