精選版 日本国語大辞典 「両シチリア王国」の意味・読み・例文・類語
りょうシチリア‐おうこく リャウシチリアワウコク【両シチリア王国】
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南イタリアとシチリア島からなる王国(1816~60)。1734年、ポーランド継承戦争の最中、スペインのドン・カルロスが、それまでオーストリアの支配下にあったナポリ地方(半島南部全域をさす)とシチリア島を征服し、両地域をスペイン系ブルボン家の支配下に置いた。しかし、19世紀初めのナポレオン時代に、ナポリはフランスの統治下に入り、ブルボン家の支配はシチリアに限られたが、ウィーン会議後、両地域はふたたびブルボン家の下に結合され、1816年12月、「両シチリア王国」と正式に命名された。シチリアはナポレオン時代の憲法を廃棄させられ、ナポリ中央政府の集権的統治下に置かれた。以後、島民の自治を求める分離運動が始まる。フェルディナンド1世に始まる歴代の王国支配は、古い社会・政治構造を維持し、民族運動に敵対的な保守反動政治に終始したので、1820年、ついで48年の革命で、ブルボン体制はしばしば揺らいだ。シチリア王国は、1860年ガリバルディの千人隊によって征服され、翌年イタリア王国に編入された。
[重岡保郎]
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シチリア王国とイタリア半島南部のナポリ王国を統合して形成した国家。共通の国王を戴き,それぞれに副王を置く。慣用的には1130年にルッジェーロ2世がシチリア王位についた時点で成立したとみなすが,実際にこの王国の名称が用いられたのは,1442~58年にアラゴン家のアルフォンソ4世によって二つの王国が統治されたときと,1816~60年にスペイン・ブルボン家のフェルディナント1世らによって統治されたときの二つの時期である。
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…島の北東部にヨーロッパ最大の活火山であるエトナ山(標高3323m)があり,最近では1983年に大噴火をみせた。
[サルデーニャ王国からイタリア王国へ]
ブルボン朝の両シチリア王国のもとにあったシチリアは,1860年ガリバルディらの遠征隊に征服された。これに対して,サルデーニャ王国のカブールはシチリアをサルデーニャ王国に併合することを策した。…
…一方,ナポリはナポレオン時代にフランスの支配下に入ったが,ウィーン会議の後にシチリアと再結合された(1816)。このときに〈両シチリア王国Regno delle due Sicilie〉が正式名称として採用された。この国家はリソルジメント期にガリバルディの〈千人隊〉によって征服され,国民投票(1860年10月21日)の結果,サルデーニャ王国への合併が決定されるまで存続した。…
…ナポレオンが没落するとミュラはイタリア王位を獲得しようと画策したが失敗,ウィーン会議の決定によって旧体制が復活することになり,フェルディナンド4世が復帰した。彼はナポリとシチリアを合わせて〈両シチリア王国〉とし,フェルディナンド1世(在位1816‐25)を称した。こうしてナポリ王国の歴史は終わった。…
※「両シチリア王国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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