ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フェルディナント1世」の意味・わかりやすい解説
フェルディナント1世[ブルガリア王]
フェルディナントいっせい[ブルガリアおう]
Ferdinand I
[没]1948.9.10. コーブルク
ブルガリア公 (在位 1887~1908) ,ブルガリア王 (在位 08~18) 。ブルガリア名フェルディナンド1世。ドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ侯アウグストの子。アレクサンダル1世のあとをうけて,1887年ブルガリア公に選ばれたが,ロシアとオスマン帝国からは承認を得られなかった。 S.スタンブロフ首相の失脚 (1894) 後,国政を実際に指導。 96年に公位の国際的承認を得た。名目上とはいえオスマン帝国に従属している状態から解放するために,オスマン帝国での青年トルコ革命ののち,1908年 10月ブルガリアが独立の王国であることをオスマン帝国に宣し,みずから「皇帝 (ツアー) 」を称した。 09年4月ロシアとオスマン帝国の協定調印後,ブルガリアの独立は認められた。独立後バルカン戦争に直面し,第1次バルカン戦争ではオスマン帝国に対して勝利を得たが,戦後,領土処分をめぐってセルビアと対立し敗北 (1913,第2次バルカン戦争) ,多大の損害を受けた。以後ドイツに接近,第1次世界大戦には同盟国側について参戦 (15) ,セルビアに侵入したが結局敗北。敗戦の責めを負って退位し,コーブルクに退いた。
フェルディナント1世
フェルディナントいっせい
Ferdinand I
[没]1564.7.25. ウィーン
ボヘミア,ハンガリー王 (在位 1526~64) ,神聖ローマ皇帝 (在位 58~64) 。ハプスブルク家の出で,カルル5世の弟。 1526年婚姻関係を通じて,ボヘミアとハンガリー王位を獲得。ボヘミアでは,侵入するトルコ軍に備え,また君主政の強化に努めた。しかし,ルター派の闘争に巻込まれ,宗教問題を起して,反乱を招き,47年には武力でプラハを占領。イエズス会の秩序をボヘミアに持込んで,貴族と騎士をカトリックに改宗させようと試みた。 58年兄帝から正式に皇帝位を譲られたが,カルル5世がほとんどドイツに滞在しなかったため,実質的にはフェルディナントがドイツの王権を行使していた。 55年のアウクスブルクの和議は主として彼の努力の成果である。即位後領内カトリック勢力の回復に努める一方,プロテスタント諸侯との和解が政治的に必要なことをも感じて,アウクスブルクの和議の留保条項があったにもかかわらず,旧カトリック司教職をプロテスタントが管理することを許した。
フェルディナント1世[オーストリア皇帝]
フェルディナントいっせい[オーストリアこうてい]
Ferdinand I
[没]1875.6.29. プラハ
オーストリア皇帝 (在位 1835~48) 。フランツ1世の長男で,1830年以来,国務会議に列し,35年父の跡を継ぎ皇帝となったが,身心が虚弱なため,叔父の大公ルートウィヒやメッテルニヒらの摂政会議に政務をゆだねた。 48年ウィーンに革命が起ると,メッテルニヒを罷免し,革命の鎮圧をねらったが,革命とともに成立した民間防衛軍の解散命令を発したため,ウィーンの市民を一層刺激し,宮廷をチロルのインスブルックに移すことを余儀なくされた。一方,ウィーンの革命はハンガリーにも飛火したが,ウィーンの場合ほど過激でなく,プラハの皇帝軍が武力で実権を回復した。自由主義的な政府がインスブルックに樹立されたあと,同年8月フェルディナントと一族はウィーンに戻ったが,ハンガリー問題で,再びウィーンに過激な暴動が起り,宮廷は再びモラビアのオルミュッツに移った。この地で同年 12月2日,皇帝位を甥のフランツ・ヨーゼフに譲った。その後はプラハで,趣味の紋章研究や工学研究にふける隠居生活をおくった。
フェルディナント1世[ルーマニア王]
フェルディナントいっせい[ルーマニアおう]
Ferdinand I
[没]1927.7.20. ブカレスト
ルーマニア王 (在位 1914~27) 。ルーマニア名フェルディナンド1世。ドイツのホーエンツォレルン=ジークマリンゲン侯レオポルトの子。叔父カロル1世のあとをうけて即位。第1次世界大戦では,ビクトリア女王,ロシア皇帝アレクサンドル2世の孫娘にあたるエディンバラ公女を王妃としていたために,連合国側について領土を拡大。またロシアとハンガリーのソビエト政権に干渉 (19) 。内政においては農民反乱防止のため土地改革を行なった (18) 。晩年自由党の I.ブラティアヌ (→ブラティアヌ家 ) に国政をゆだねた。
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