朝日日本歴史人物事典 「中井正清」の解説
中井正清
生年:永禄8(1565)
江戸初期の大工。京大工頭として畿内・近江6カ国の大工・大鋸を支配した中井家の初代。初名は藤右衛門。大和国(奈良県)法隆寺大工の中井正吉の子。正吉は豊臣家の御大工であったとする説もある。正清の若い時期の活動を示す確かな史料はなく,関ケ原の戦後,慶長7(1602)年の伏見城本丸作事に関するものが初見。同年の二条城造営では,3人の徳川家御大工のひとりにすぎなかった。同11年に従五位下大和守に任官。これ以後,徳川家御大工の地位は正清に一元化され,直後に完成した法隆寺聖霊院などの修復棟札に「一朝惣棟梁橘朝臣中井大和守正清」と署名。その後,二条城(1606),江戸城(1607),駿府城(1608),名古屋城(1612)の各天守,禁裏(1613),方広寺大仏殿(1614)など,文字通り東奔西走して幕府関係の建築作事を担当。正清がこれら大規模な建築を次々に完成し得た秘密は,配下に組織した法隆寺大工を中核とする棟梁衆の技術と,6カ国内に配置した大工組や大鋸組の動員力にある。この間,正清は知行が1000石になり,同18年には大名に匹敵する従四位下に昇叙。これは醍醐寺座主の義演が「大御所(家康)に御気色よき者なり,比類なき故なり,先代未聞か」と驚くような,大工としては異例の出世であった。正清が家康に重用されたのは,大工としての業績に加えて,側近として政治的に重要な役割を果たしたことによる。正清は,豊臣家滅亡の引き金になった大仏鐘銘事件の際,家康に鐘銘の写しを送り,大坂の陣の前年には城中の絵図を作成。大坂城の攻撃には一族を率いて参陣し,配下の大工・大鋸を動員して陣小屋を建て,鉄の楯を製作した。晩年には家康の廟所である久能山東照宮や日光東照宮を造営。 2代の正侶は,二条城の寛永度造営,大坂城天守の再建などを担当した。3代の正知は,正侶の従兄弟に当たり,幼少の間は実父の正純が後見として大工頭を勤めた。このとき石高は500石に半減。正純は,寛永度内裏のほか,石清水八幡宮,延暦寺根本中堂,仁和寺五重塔,東寺五重塔など,著名な社寺を造営。正知は正保4(1647)年に大工頭に就き,禁裏の火災が相次いだことから,20年ほどの間に承応度,寛文度,延宝度と3度の御所造営を担当。しかし新築が一段落した城郭や寺社は,修理工事に中心が移り,経費節減のために入札制度も導入された。その結果,初期の公儀作事では,配下の大工に支給する人件費を割いて設計費用を捻出していたが,入札になるとその財源がなくなり,中井家の財政は破綻した。幕府は元禄6(1693)年に設計業務の工費負担を決め,いわゆる中井役所が成立。その職務は,公儀作事の設計・見積,および工事現場の施工監理に限定された。ただ,宝永度(1709),寛政度(1790),安政度(1855,現存)の御所造営では,中井家が配下の棟梁と6カ国の大工組を召集して工事を実施。なお享保5(1720)年の史料では,中井家配下は棟梁46人,6カ国の大工7294人,大鋸5859人とある。<参考文献>谷直樹『中井家大工支配の研究』,平井聖編『中井家文書の研究』全10巻,高橋正彦編『大工頭中井家文書』
(谷直樹)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報