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戦国期~江戸期の城。京都市伏見区桃山町古城山にある。伏見城は厳密にいうと三つつくられている。最初の城は1592年(文禄1)に着工し94年に完成したもので、豊臣(とよとみ)秀吉が養子秀次(ひでつぐ)に関白職を譲り隠居城としたものである。これは後の城の南西方向指月(しげつ)山に築かれ、指月城ともよばれた。ところが完成してまもない96年(慶長1)伏見地方を襲った大地震により建造物は倒壊してしまった。続いて二番目の城が築かれることになったが、場所を現在の城址(じょうし)の位置である木幡山(こばたやま)に移し、山頂を本丸とし、西の丸、松の丸、名護屋(なごや)丸、日下部(くさかべ)丸などからなる城ができあがった。秀吉の没後は徳川家康が入ったが、1600年(慶長5)家康が上杉征伐に東下した留守を西軍に攻められ炎上陥落した。02年から復旧工事が開始され、大坂城攻撃の拠点としての位置づけから補強され、規模は秀吉時代のものより小さいながら堅城となって出現した。これが三番目の伏見城である。大坂城落城後はこの城も不用となり、19年(元和5)廃城となり、城の建造物は京都の社寺や、諸大名に下付され、各地に伏見櫓(やぐら)の名を残すことになった(例、江戸城伏見櫓、福山城伏見櫓)。破却が完了したのは25年(寛永2)であった。その後、城址一帯に桃が植えられたため、伏見桃山といわれ、桃山時代の名のもとになる。現在、城址の大部分は明治天皇の桃山陵、同東陵となっている。1964年(昭和39)城址北西部長束(なつか)郭に建てられた復興天守閣は当時のものとは関係のない模擬天守である。
[小和田哲男]
京都市街の南東方にあたる伏見に秀吉が築いた二つの城。はじめの城は巨椋(おぐら)池に臨む指月の地にあった。秀吉は1592年(文禄1),大政所の死を契機に隠居城として普請を始めたが,94年には明の使節を迎えるべく向島にも普請を拡げた。そのため25万人を動員したといわれ,石垣の石や御殿などの建築は近くの淀城を壊して移した。1596年(慶長1)ここに明の副使を迎えたが,正使が来る直前の大地震で城は石垣もろとも崩壊した。直ちに背後の木幡山に敷地を移して第2の伏見城が築かれ,聚楽第破却後の豊臣政権の所在地として,城下には諸大名の豪華な邸宅もつくられた。秀吉の死後は徳川家康が入って政務を見,関ヶ原の戦の際にはその将鳥居元忠が籠ったため西軍に焼かれたが,家康はこれを再建して幕府の畿内における本拠地とした。大坂の陣のときも将軍はここから出陣した。陣後の1620年(元和6)幕府は当城を廃棄して大坂城をもって代えることとし,石垣の石は大坂城修築にあて,建物も天守を二条城へ移したのをはじめ,各所へ移築した。
執筆者:宮上 茂隆
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桃山城とも。京都市伏見区にあった織豊期の平山城。大坂城と並ぶ豊臣政権の拠点。1592年(文禄元)豊臣秀吉が伏見の指月(しげつ)に築城を開始。96年(慶長元)文禄の役の講和使節を迎える直前に地震で倒壊した。その後,北東の木幡(こはた)山に再築。秀吉の死後は徳川家康が入り,関ケ原の戦では西軍に攻撃され落城。戦後家康により再建され,家康はここで将軍宣下をうけた。1623年(元和9)廃城。伏見は京と奈良を結ぶ大和街道が通り,宇治川・淀川を通じ大坂に連絡する交通の要衝である。秀吉の伏見築城と前後して,京の聚楽第(じゅらくてい)や淀川の押さえである淀城の解体が行われており,これらの機能を伏見へ一元化する意図がうかがえる。
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…近世の統一政権(豊臣政権,江戸幕府)が大名を動員して行った土木工事。豊臣政権下においては大坂城の築城,聚楽第の造営,方広寺大仏殿の建設,肥前名護屋城や伏見城の築城などがそのおもなもので,〈際限なき軍役〉といわれた朝鮮の役における軍事動員とともに諸国の大名を圧迫した。役負担の内容は人足の提供を主とし,ときにより資材を供出することも含まれていた。…
…家康は,三成の路線に反対であることを行動によって天下に明らかにしたのであり,このことによって家康は武将派の大名の支持を集めたのであった。 これらの事件の直後に家康は秀吉の築いた伏見城本丸に入ったが,これは〈天下殿になられ候〉と当時評されたような意味をもつ行動であった。さらに8月を過ぎると他の4大老が前後して帰国し,ひとり中央に残った家康は大坂城西丸に入り,五大老の権限を事実上一人で振るうこととなった。…
…桓武天皇陵が807年(大同2)この地に移され,《江家次第》《拾芥抄》には〈伏見山に在り〉とされている。伏見山は木幡(こはた)山ともいい,この地がのちに豊臣秀吉の伏見城となり,さらに明治天皇陵となった。その南麓に延久年間(1069‐74)藤原頼通の子,橘俊綱が造営した伏見山荘は1093年(寛治7)焼失したが,高陽(かや)院,石田殿とともに三名勝とされていた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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