伏見城(読み)フシミジョウ

デジタル大辞泉 「伏見城」の意味・読み・例文・類語

ふしみ‐じょう〔‐ジヤウ〕【伏見城】

伏見にあった城。文禄3年(1594)豊臣秀吉が住居として築城。秀吉の死後、子の秀頼大坂城を本拠としたので、徳川家康が入城。豊臣家滅亡後の寛永2年(1625)幕命により破却。第二次大戦後、天守閣を復興。

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精選版 日本国語大辞典 「伏見城」の意味・読み・例文・類語

ふしみ‐じょう‥ジャウ【伏見城】

  1. 京都市伏見区にあった平山城。文祿三年(一五九四)豊臣秀吉が指月山に着工。慶長五年(一六〇〇)地震で倒壊し、宇治川に臨む木幡山に移し再築城。淀・山崎を抑え京の関門を占めた。秀吉の死後、徳川家康の預りとなり、三代家光は将軍拝任式を行なった。元和九年(一六二三)破却。主要建造物は大徳寺、西本願寺、福山城などに移築。別称の桃山城は城跡に桃の木を植えたためという。土塁と堀が残存。指月城。木幡城。

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日本の城がわかる事典 「伏見城」の解説

ふしみじょう【伏見城】

京都府京都市伏見区にあった平山城(ひらやまじろ)。豊臣秀吉が1591年(天正19)に、甥の豊臣秀次関白の地位と聚楽第(京都市上京区)を譲ったことにともない、太閤となった秀吉の隠居所として伏見の地に築いた屋敷を起源とした城である。1593年(文禄2)、嫡男の捨丸(豊臣秀頼)が誕生したことにより、将来、大坂城を秀頼に譲ることを想定して、伏見城の大規模な改修が行われた。この改修に伴い、宇治川の流れを変えて巨椋池に街道を通す大規模な土木工事も行われている。さらに、宇治川の対岸に伏見城の支城、向島城が築城され、城下町の整備も始まった。秀吉は大坂城と伏見城を行き来していたが、晩年は伏見城で過ごすことが多くなり、1598年(慶長3)8月18日に、五大老に豊臣秀頼を託して伏見城で没した。1600年(慶長5)6月、関ヶ原の戦い前夜、徳川家康は会津の上杉氏征伐に動き出したが、このとき、伏見城には家康の城代鳥居元忠が在城していた。この伏見城を小早川秀秋、島津義弘ら4万の兵が攻め、落城させたが、これが関ヶ原の戦いの直接のきっかけの一つになった。家康は1601年(慶長6)3月に伏見城に入城し、藤堂高虎が普請奉行に起用されて、二条城(京都市中京区)とともに伏見城の再建に着手した。1603年(慶長8)には、伏見城で征夷大将軍の宣下を受けて江戸幕府を開いた。1605年(慶長10)、家康は一時期二条城に移ったが、本丸部分が完成すると伏見城にもどっている。幕府は二条城を儀典用、伏見城を居館用として利用していたが、大坂の陣後の1619年(元和5)、一国一城令の趣旨からも両城の維持は困難として、伏見城の廃城が決定した。その後、城跡一帯は開墾され、農地となった。1964年(昭和39)、城跡に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、鉄筋コンクリート製の5重6階の模擬大天守と3重4階の模擬小天守、櫓(やぐら)門などがつくられた。その後、この遊園地は閉園となったが、建物は京都市に寄贈され、同市は伏見桃山城運動公園として整備した。模擬天守などの内部は現在、耐震基準を満たしていないことから非公開となっている。JR奈良線桃山駅から徒歩約15分。◇桃山城とも通称されている。

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百科事典マイペディア 「伏見城」の意味・わかりやすい解説

伏見城【ふしみじょう】

伏見桃山城とも。京都市伏見区桃山の地に豊臣秀吉が1594年に建てた城。中心となる殿舎は金銀で飾り華麗をきわめた。のち秀頼,徳川家康も一時居城としたが,1623年家光によって取壊され,建物の一部は社寺に移建された。豊国神社の唐門はその遺構とされている。
→関連項目高台寺聚楽第徳川家康西本願寺武家諸法度伏見[区]松平家忠

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「伏見城」の意味・わかりやすい解説

伏見城
ふしみじょう

戦国期~江戸期の城。京都市伏見区桃山町古城山にある。伏見城は厳密にいうと三つつくられている。最初の城は1592年(文禄1)に着工し94年に完成したもので、豊臣(とよとみ)秀吉が養子秀次(ひでつぐ)に関白職を譲り隠居城としたものである。これは後の城の南西方向指月(しげつ)山に築かれ、指月城ともよばれた。ところが完成してまもない96年(慶長1)伏見地方を襲った大地震により建造物は倒壊してしまった。続いて二番目の城が築かれることになったが、場所を現在の城址(じょうし)の位置である木幡山(こばたやま)に移し、山頂を本丸とし、西の丸、松の丸、名護屋(なごや)丸、日下部(くさかべ)丸などからなる城ができあがった。秀吉の没後は徳川家康が入ったが、1600年(慶長5)家康が上杉征伐に東下した留守を西軍に攻められ炎上陥落した。02年から復旧工事が開始され、大坂城攻撃の拠点としての位置づけから補強され、規模は秀吉時代のものより小さいながら堅城となって出現した。これが三番目の伏見城である。大坂城落城後はこの城も不用となり、19年(元和5)廃城となり、城の建造物は京都の社寺や、諸大名に下付され、各地に伏見櫓(やぐら)の名を残すことになった(例、江戸城伏見櫓、福山城伏見櫓)。破却が完了したのは25年(寛永2)であった。その後、城址一帯に桃が植えられたため、伏見桃山といわれ、桃山時代の名のもとになる。現在、城址の大部分は明治天皇の桃山陵、同東陵となっている。1964年(昭和39)城址北西部長束(なつか)郭に建てられた復興天守閣は当時のものとは関係のない模擬天守である。

[小和田哲男]

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改訂新版 世界大百科事典 「伏見城」の意味・わかりやすい解説

伏見城 (ふしみじょう)

京都市街の南東方にあたる伏見に秀吉が築いた二つの城。はじめの城は巨椋(おぐら)池に臨む指月の地にあった。秀吉は1592年(文禄1),大政所の死を契機に隠居城として普請を始めたが,94年には明の使節を迎えるべく向島にも普請を拡げた。そのため25万人を動員したといわれ,石垣の石や御殿などの建築は近くの淀城を壊して移した。1596年(慶長1)ここに明の副使を迎えたが,正使が来る直前の大地震で城は石垣もろとも崩壊した。直ちに背後の木幡山に敷地を移して第2の伏見城が築かれ,聚楽第破却後の豊臣政権の所在地として,城下には諸大名の豪華な邸宅もつくられた。秀吉の死後は徳川家康が入って政務を見,関ヶ原の戦の際にはその将鳥居元忠が籠ったため西軍に焼かれたが,家康はこれを再建して幕府の畿内における本拠地とした。大坂の陣のときも将軍はここから出陣した。陣後の1620年(元和6)幕府は当城を廃棄して大坂城をもって代えることとし,石垣の石は大坂城修築にあて,建物も天守を二条城へ移したのをはじめ,各所へ移築した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伏見城」の意味・わかりやすい解説

伏見城
ふしみじょう

俗称,桃山城。京都市伏見区にある平山城。豊臣秀吉が文禄3 (1594) 年邸宅として築城に着手し,慶長1 (96) 年に完成。本丸に5層の天守閣を構え,学問所,名護屋丸,二の丸,松の丸,治部少丸,御花畑山荘などがあり,結構をきわめたという。同年閏7月の大地震で破壊したが修理され,同3年春完成。同年8月秀吉の死後,子秀頼が在城,翌年には徳川家康が入った。関ヶ原の戦いでまた焼亡したが修理され,家康の征夷大将軍の宣下式が行われた。元和9 (1623) 年家光の将軍宣下ののち取りこわされ,本丸御殿は二条城に,隅櫓 (やぐら) は大坂城,淀城,江戸城,福山城などに移され,大徳寺,西本願寺その他にも遺構がある。現在の天守閣などは第2次世界大戦後の 1964年に復興されたもの。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「伏見城」の解説

伏見城
ふしみじょう

桃山城とも。京都市伏見区にあった織豊期の平山城。大坂城と並ぶ豊臣政権の拠点。1592年(文禄元)豊臣秀吉が伏見の指月(しげつ)に築城を開始。96年(慶長元)文禄の役の講和使節を迎える直前に地震で倒壊した。その後,北東の木幡(こはた)山に再築。秀吉の死後は徳川家康が入り,関ケ原の戦では西軍に攻撃され落城。戦後家康により再建され,家康はここで将軍宣下をうけた。1623年(元和9)廃城。伏見は京と奈良を結ぶ大和街道が通り,宇治川・淀川を通じ大坂に連絡する交通の要衝である。秀吉の伏見築城と前後して,京の聚楽第(じゅらくてい)や淀川の押さえである淀城の解体が行われており,これらの機能を伏見へ一元化する意図がうかがえる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「伏見城」の解説

伏見城
ふしみじょう

安土桃山時代,京都市伏見区にあった平山城
豊臣秀吉が晩年隠居所として築城。外観は城郭,内容は邸宅といった様式。伏見は城下町となり,秀吉の死後,秀頼は大坂城に移り,徳川家康が預かって政務をとった。1623年幕命により破壊。そのあとに桃の木を植えたので桃山という。豊国神社唐門・西本願寺唐門は伏見城の遺構という。

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世界大百科事典(旧版)内の伏見城の言及

【御手伝普請】より

…近世の統一政権(豊臣政権,江戸幕府)が大名を動員して行った土木工事。豊臣政権下においては大坂城の築城,聚楽第の造営,方広寺大仏殿の建設,肥前名護屋城や伏見城の築城などがそのおもなもので,〈際限なき軍役〉といわれた朝鮮の役における軍事動員とともに諸国の大名を圧迫した。役負担の内容は人足の提供を主とし,ときにより資材を供出することも含まれていた。…

【関ヶ原の戦】より

…家康は,三成の路線に反対であることを行動によって天下に明らかにしたのであり,このことによって家康は武将派の大名の支持を集めたのであった。 これらの事件の直後に家康は秀吉の築いた伏見城本丸に入ったが,これは〈天下殿になられ候〉と当時評されたような意味をもつ行動であった。さらに8月を過ぎると他の4大老が前後して帰国し,ひとり中央に残った家康は大坂城西丸に入り,五大老の権限を事実上一人で振るうこととなった。…

【伏見】より

…桓武天皇陵が807年(大同2)この地に移され,《江家次第》《拾芥抄》には〈伏見山に在り〉とされている。伏見山は木幡(こはた)山ともいい,この地がのちに豊臣秀吉の伏見城となり,さらに明治天皇陵となった。その南麓に延久年間(1069‐74)藤原頼通の子,橘俊綱が造営した伏見山荘は1093年(寛治7)焼失したが,高陽(かや)院,石田殿とともに三名勝とされていた。…

※「伏見城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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