日本大百科全書(ニッポニカ) 「中原猶介」の意味・わかりやすい解説
中原猶介(なかはらなおすけ)
なかはらなおすけ
(1832―1868)
薩摩藩(さつまはん)士、軍事技術者。名は尚勇。また誼卿、鉄心斎と号した。猶介は通称。14歳のとき御庭方兼御薬方となり、蘭学(らんがく)を志し、1849年(嘉永2)から約3年間、藩命で長崎に出て蘭学を学んだ。島津斉彬(なりあきら)の集成館事業の中心的な技術者として活躍した。薩摩切子(きりこ)ガラスの製造、写真術の研究、反射炉の築造、洋式帆船や蒸気船の製造などに従事、また電信機の製作、電気を利用した水雷・地雷の実験など多方面にわたっている。斉彬の没後、職を免ぜられ、江戸に出て江川塾に入り砲術を修め、塾頭も務めたが、藩命で長崎で武器の購入にもあたった。1864年(元治1)軍賦役となり、禁門の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)には大砲隊長として活躍、第一次長州征討に従軍、第二次のときは長崎にあって薩長連合に尽力、鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いには一番砲隊長として出陣、のちに北陸に回り越後(えちご)長岡の戦いで右足に銃創を受け、柏崎(かしわざき)野戦病院で没した。正五位が贈られた。
[菊池俊彦]
『中原尚徳・中原尚臣編『中原猶介事蹟稿』(1929・自家版)』