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蛤御門の変 ハマグリゴモンノヘン

6件 の用語解説(蛤御門の変の意味・用語解説を検索)

デジタル大辞泉の解説

はまぐりごもん‐の‐へん【蛤御門の変】

元治元年(1864)長州藩が京都に出兵し、会津・薩摩(さつま)などの藩兵と蛤御門付近で戦って敗れた事件。前年8月の政変で失った長州藩の勢力回復を図ったもの。これを機に、江戸幕府の第一次長州征伐が行われた。禁門の変

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百科事典マイペディアの解説

蛤御門の変【はまぐりごもんのへん】

禁門の変

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防府市歴史用語集の解説

蛤御門の変

 1864年、長州藩[ちょうしゅうはん]が不利になった形勢を立て直すために京都に攻めこんだのですが、京都を守る役であった会津藩主松平容保[まつだいらかたもり]の軍に負けた事件のことを言います。禁門の変[きんもんのへん]とも言います。

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大辞林 第三版の解説

はまぐりごもんのへん【蛤御門の変】

1864年7月、前年の8月18日の政変で京都を追われた長州藩が、形勢挽回ばんかいのため京都に兵を進め、会津・薩摩藩などの兵と蛤御門付近で交戦して敗れた事件。禁門の変。 → 長州征伐

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

蛤御門の変
はまぐりごもんのへん

禁門の変」のページをご覧ください。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

蛤御門の変
はまぐりごもんのへん

1864年(元治1)7月、京都の長州藩兵と幕府側諸藩兵との戦い。禁門(きんもん)の変ともいう。前年の八月十八日の政変で京都を追われた長州藩では、1864年、京都の公武合体派諸侯の連携が破れ、しかも池田屋事件が起こるに及んで、木戸孝允(たかよし)や高杉晋作(しんさく)らの慎重論は、来島又兵衛(くるしままたべえ)らの進発出兵論を抑えられなくなった。福原越後(えちご)、国司信濃(くにししなの)、益田右衛門介(ますだうえもんすけ)の3家老と来島又兵衛、久坂玄瑞(げんずい)、真木和泉(まきいずみ)らは藩兵と諸藩浪士軍らを率いて上京し強訴したが拒絶され、久坂らの自重論も効なく、世子の率いる本隊が到着していないにもかかわらず、7月19日、伏見(ふしみ)、蛤御門、堺(さかい)町御門で戦闘に入った。来島らは蛤御門に迫ったが、会津、桑名、薩摩(さつま)らの藩兵に敗北、来島は戦死、久坂、真木らは自刃した。この戦いで京都は2万軒余の家が焼ける大火(どんどん焼け、鉄砲焼け)となった。またこれを機に幕府は第一次長州征伐の兵を起こし、長州藩兵の将、3家老7参謀は、その後切腹あるいは斬殺(ざんさつ)に処された。[井上勝生]

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世界大百科事典内の蛤御門の変の言及

【禁門の変】より

…1864年(元治1)7月19日,長州藩と朝廷を固める会津藩,薩摩藩らの諸藩の間で起きた戦闘。蛤(はまぐり)御門の変ともいう。これより前,尊王攘夷を主張する長州藩は,〈文久3年(1863)8月18日の政変〉で,公武合体派の会津藩や薩摩藩らの諸藩兵により京都から追われ,朝廷の九門の一つ,禁門警備の任を免じられ,藩主が処罰された。…

※「蛤御門の変」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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