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中国服 ちゅうごくふく

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

中国服
ちゅうごくふく

中国の民族服。盤領 (あげくび) ,交襟または対襟,特殊な紐ボタン,窄衣などの特徴をもつ。おもに 17~20世紀まで清朝として君臨した満州族固有の服装に,若干の漢民族的要素が加味されて成立したもの。

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デジタル大辞泉の解説

ちゅうごく‐ふく【中国服】

中国人が着る伝統的な衣服。上衣と下衣とに分かれたものと、足首まで届く長衣のものとがある。日本では、旗袍(チーパオ)とよばれる、婦人用の盤領(あげくび)・筒袖で裾の長いワンピース形式のものをいうことが多い。→人民服

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百科事典マイペディアの解説

中国服【ちゅうごくふく】

中国で着用されていた服の総称。地方により形状や名称はさまざまだが,一般にワンピース型と上衣(衫)・下衣(ズボン)の二部式がある。男性のワンピース型は袍,女性のものは旗袍(チャイニーズ・ドレス)という。

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世界大百科事典 第2版の解説

ちゅうごくふく【中国服】

中国には現在56種の多民族がおり,これらの民族はそれぞれ独自の民族服をもっている。しかし,全中国人口の94%を占める漢民族が,伝統的に身につけてきた服装が中国服であるとすれば,宋代以後の中国服は四つの基本衣によって構成された(中国古代の服装については,〈服装〉の項を参照されたい)。袍,襖,衫,褲がそれで,このうち袍,襖は袷(あわせ)または綿入れの秋冬着で袍は丈が長く,襖は丈が短い。衫は単(ひとえ)の春夏用でこれには丈の長い長衫と丈の短い短衫がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

中国服
ちゅうごくふく

中国の伝統的な服装。なお、わが国でいう中国服とは元来、清(しん)朝以後に採用された満州式の胡服(こふく)のことで、漢人はこれを旗袍(チーパオ)とよんだ。盤領筒袖(あげくびつつそで)の裾(すそ)の長いワンピース形式で、乗馬に好都合なように、腰から下は両脇(わき)で長いスリットになっており、本来は革帯を締めて下にはかならずズボンをはいた。しかし、今日の、とりわけ婦人用の旗袍では、革帯もズボンも省略されている。[石山 彰]

歴史

紀元前1400年ごろの殷(いん)代の遺跡からは彩色土器とともに骨製の縫い針が出土している。また、同じころの殷代の遺跡からは甲骨文字が発見され、糸、桑、蚕、帛(はく)などの文字が読み取られることから、すでに養蚕絹織が行われていた事実が知られる。前1100年ごろの殷代後期になると、安陽などから出土した玉俑(ぎょくよう)(美石でできた人形)や石人(せきじん)などによって、そのころの服装も推定できるようになる。それによると、交領(くみえり)(和服衿(えり))筒袖の短上衣にズボン形式の袴(はかま)か裳(も)の二部形式で、武人は襟や袖口には雷文などの文様を施していたことがわかる。
 周代中期以降、わけても春秋・戦国時代には、四書五経(四書=大学、中庸、論語、孟子(もうし)、五経=易経、詩経、書経、春秋、礼記(らいき))などの古典書が生まれ、古代漢民族の服装記録もしだいに明らかになってくる。一方、玉俑、陶俑、彩色木俑などの出土品や絹絵人像など、形象資料もしだいに数を増してくる。それらによると、周代も基本的には殷代同様、交領の上下二部形式の衣服を着用したことが、たとえば『論語』の「管仲なりせば衽(おくみ)を左にせん」や、『詩経』の「緑衣黄裳(りょくいこうも)」、また『礼記』玉藻篇(へん)の「衣は正色、裳は間色」などによって知られる。ところが春秋時代(前8~前5世紀)になると、深衣という緩やかな一部形式の衣服に幅広の帯を締めて着用し、公服には12章を施すとともに、冠をも異にして階級差を表した。こうして戦国時代(前5~前3世紀)末になると、服装の様式は総じて漢代初期に近くなってくる。しかし、漢に先だつ秦(しん)代(前3世紀)の服装は、周の制度を踏襲して、朝服には祗服(しふく)という短い深衣状の単衣が着られた。また武人の服装については、1974年に発掘された陝西(せんせい)省の始皇帝の墓、(り)山陵東側の陪葬(ばいそう)坑出土の530体の兵俑がある。
 漢は、長安に都した前漢時代(前202~後8)と、洛陽(らくよう)に都した後漢(ごかん)時代(25~220)に分けられるが、前漢時代の服装は基本的には秦代の踏襲であり、いずれも広袖の緩やかな深衣状の衣服で、着用にあたっては大帯を締めた。この事実は1972年、湖南省長沙(ちょうさ)で発掘された馬王堆(まおうたい)漢墓からの出土品によってもわかる。文献に表れる男子服には縫い取りのある繍衣(しゅうい)、儒者の袍(ほう)である儒服、朱の上衣と白の裳からなる朱衣素裳などがあり、女子服には青い上衣と縹(はなだ)色の裳からなる青衣縹裳(ひょうも)や、紺の上衣と黒い裳からなる紺衣皀(はく)裳などがあった。武人は筒袖のぴったりした短衣に緩やかなズボン袴褶(こしゅう)をはいた。こうした服装は労働に便利なところから、大なり小なり類型は農人、工人にもみられた。後漢時代の初代光武帝(在位25~57)は赤を最高位とする服色を制定し、続く明帝(みんてい)(在位57~75)は史上最初の冠服制を定めた。それによると、男子には祭祀(さいし)服8種、朝服11種が、女子には深衣の廟服(びょうふく)、蚕服、朝服、婚服が階級別に定められた。胡服は戦国時代の武人間にすでにみられたが、それらは東北に居住した遊牧騎馬民族の衣服を取り入れたものであった。しかし、後漢末の胡服は西域(せいいき)やイラン系のものであった。このように西域との交流は戦国時代末から活発化しており、後漢末の霊帝(在位168~189)などは、とりわけ西域の文物を愛好したことで知られる。絹織物も早くから西方との交易に使われたが、漢代になって全国統一が進むと、その生産も向上し、大量に輸出される一方、薄物、綾(あや)、錦(にしき)、刺しゅうなど種類も多くなり、色彩も豊かになった。漢代衣服の優雅さは、とりわけ舞女の長袖衣に著しいが、この様式は中国の京劇の衣装にも受け継がれている。他方、漢代の服装が朝鮮の楽浪(らくろう)やわが国の服装にも大きく影響していることは、広袖裾長といった類型的特徴からも類推できよう。このように漢代の文化は、東西にわたって国際的な展開をみせた。
 三国時代(魏(ぎ)、呉(ご)、蜀(しょく)。220~280)の『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)が3世紀後半の倭人の服装を伝えていることは著名である。美術史上で六朝(りくちょう)時代ともよばれる南北朝時代(440ころ~589)はペルシア、インド、中国の三つの文明が、この期を契機として華北と江南の両地で世界史的な融合が行われ、みごとな結実をみた時代なのであった。胡服は北朝の正装となり、武人は南朝でもそれを着用した。わが国古墳時代の埴輪(はにわ)武人像は、この期の胡服との類型を示している。また南朝初期にあたる東晋(とうしん)の顧(こがいし)が描いたと伝えられる『女史箴図(じょししんず)』には、この期の婦人座像が描かれており、それまでは座式生活であったことがわかる。胡床生活に変わり、衣服も胡服系中心になるのは、北朝の王朝が中国内部に成立して以後のことであり、古代服は儀礼服に残っていった。
 わが国の飛鳥(あすか)・奈良時代に絶大な影響を及ぼした隋(ずい)・唐時代(581~907)は、長く北魏など北方民族に支配された長安や洛陽を都とした漢民族の王朝であったところから、服装にも西域や北方の影響が強かった。こうして服装も男子は交領の衣と袴の上に円領(まるえり)の袍を重ね、女子は短衣に長裙(ちょうくん)、それに披帛という姿になった。これらは敦煌(とんこう)の壁画や三彩釉陶俑(ゆうとうよう)のほか、有名な永泰公主墓壁画などにみることができる。他方、唐代は西域との交流によって若者男女に胡服や騎馬が流行しただけでなく、生活様式そのものも国際化し、染織工芸も大いに発達した。このことは、わが国正倉院の宝物によっても知られる。宋(そう)代(960~1279)は北方の内蒙(ないもう)を遼(りょう)、満州を金の両民族に占領されたため、文化は概して保守的になり、服制の再編も行われた。このため唐代よりも簡略化され、庶民の服装も地方都市の発達とともに解放的となった。この服制は儒教の影響とともに多く朝鮮に残る一方、こうした特性は当時入宋(にっそう)した僧たちによって、わが国の僧服の形式にも伝えられている。南宋時代は都が江南にあったため、染織は大いに発達し、豪華な錦や刺しゅう、繻子(しゅす)織などが生まれた。遼・金・元(げん)代の王朝は砂漠や草原の遊牧民出身であったため、総じて胡服中心となったが、帝王や貴族は伝統の広袖様式を用いた。
 明(みん)代(1368~1644)は漢民族の王朝であったことから、筒袖短衣にズボンといった胡服の形式を禁止し、服制を漢民族本来に戻して、正服は袍衣にし、竜文を施す一方、一般服にも牡丹(ぼたん)などの文様を施し、色彩も豊かになった。女性も衣裙(いくん)が中心になる。続く清(しん)代(1616~1912)の王朝は満州の女真族であるところから、胡服系の長い筒袖で両脇にスリットのある袍が着られた。漢人がこれを旗袍(チーパオ)といったことは冒頭にも記した。満州人はすべて八旗の軍団に編入されたところからこの名がある。ズボンは(クーツ)、長上衣は打掛児(ターコワル)、羽織は馬掛児(マーコワル)、チョッキは背心(ペイシン)とよんで、頭髪も満州式が強要された。辛亥(しんがい)革命以後の中華民国(1912~1949)でも、しばらくはこの衣服が着られ、また現代の女性の晴れ着にもそれが残っている。しかし大半は洋服に変わり、これを孫文の号にちなんで中山(ちゅうざん)服といい、結め襟で人民帽を伴うのを特徴にしている。今日、人民服とか工人服とよばれるのもこれである。[石山 彰]
『杉本正年著『東洋服装史論攷』(1979・文化出版局) ▽張末元著『漢朝服装図様資料』(1963・香港・太平書局) ▽沈従文著『中国古代服飾研究』(1981・香港・商務印書館)』

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