衣服の、首を囲む部分のこと。襟、衿、領とも書き、古くは衣(きぬ)の領(くび)(頸)ともいった。洋服の襟はカラーともよばれるが、当然ながら着物の襟とは構成上かなり異なる。当初、身頃(みごろ)の襟ぐり自体を意味したが、のちにはその裁ち目の始末のためにつけた別布、すなわち置き襟をもさすようになった。着物の襟には、襟なしのほか、別布の襟をつけた詰め襟形の盤領(あげくび)(上頸、丸首(まるくび))とV字形の垂領(たりくび)(下頸(さげくび))、それに南蛮風、洋風を加味したものがある。
[田村芳子]
1世紀ごろ、庶民は長方形の布の中央に直線に襟あきをあけただけの貫頭衣を着用した。奈良時代の女子の短衣、早袖(はやそで)にも襟がなく、襟あきを切っただけだった。盤領の起源はユーラシア大陸北方の草原地帯にあり、垂領は南方から伝来したものだといわれるが、古墳時代の埴輪(はにわ)にはその両方がみられる。飛鳥(あすか)・奈良時代以降、主として男子は盤領、女子は垂領となったが、近世以降は垂領が主流となり、それに南蛮風、洋風を加味したものが現れた。
[田村芳子]
盤領は、円形の襟ぐりに幅2、3センチメートルの立ち襟がつく。唐風の男子の袍(ほう)、直衣(のうし)、狩衣(かりぎぬ)、水干など、奈良朝廷の公家(くげ)や従者の衣服の襟がこれである。当時の襟ぐりは約50センチメートルで、首に密着していたため、下前を裏側に折って襟をつけたものもある。水干は、上前の襟先と後ろ襟の中央につけた丸紐(まるひも)を結び合わせて着たが、活動時には紐を結ばずに、左右の襟を斜めに折って着ることもあった。鎌倉時代以降、公家、武家の礼服となった狩衣は、上前の襟先につけた蜻蛉頭(とんぼがしら)(入紐(いれひも))に、下前の襟先の羂(わな)をかけて留めた。平安時代には服装が日本独自のものに変化し、唐風の大袖の礼服の下に、袖口の詰まった小袖を肌着として着用するようになった。室町時代には盤領の襟ぐりは55センチメートルほどに、近世には60センチメートルにもなって肌着の垂領が外から見えていたが、その後小袖が表着化し、朝廷の男子の礼服以外の着物の襟は垂領となり、盤領は一般にはみられなくなった。
[田村芳子]
垂領は、T字形の襟あきに幅の狭い襟をつけて上前と下前を引き違えて着るもので、日本の着物に約2000年の間、取り入れられてきた。前身(まえみ)の正面中央を欠き、背から前身の左右に襟をつけた方領(ほうりょう)(角襟(かくえり))も垂領の一種である。奈良・平安時代の庶民の短衣、肩衣(かたぎぬ)や手なし(袖なし)の襟は、裾(すそ)から襟肩を通ってもう一方の裾までつけたが、これは半纏(はんてん)、襦袢(じゅばん)など現代にまで引き継がれている。古代から近代まで、官人が袍の上に着た小忌衣(おみごろも)(小忌(おみ)ともいう)も垂領である。古墳時代の埴輪の衣褌(きぬはかま)、衣裳(きぬも)の短衣の多くは垂領で、北方民族の胡服(こふく)の系統を示す左衽(さじん)(左前(ひだりまえ))の襟元を小紐で留める。ちなみに右衽は、推古(すいこ)天皇の冠位十二階制(603)で中国の制に倣って取り入れられた。719年(養老3)に元正(げんしょう)天皇が左衽を禁じたが、奈良時代あたりまで一部で続いた。
同じ胡服系の筒袖で無襴(むらん)の短衣、襖(あお)(おうともいう)も垂領を小紐で留めたが、その後、中世に武士が台頭すると、これは方領の直垂(ひたたれ)系の衣服になり、近世以降は武士の礼装となって幕末まで続いた。直垂、素襖(すおう)、大紋(だいもん)は垂領でありながら胸紐(組紐や革緒)で胸元を留めた。素襖は本来一重の襖であり、この袖を取り去ったものが裃(かみしも)である。この垂領はのちに垂直に下ろして着用された。
奈良朝廷の礼服(らいふく)や袍の下に着る半臂(はんぴ)、下襲(したがさね)、単衣(ひとえ)、衵(あこめ)、女子の袿(うちき)、小袿(こうちぎ)などは衽(おくみ)があり、幅の狭い襟がついていたが、中世になると庶民も衽のある丈の長い小袖を着るようになった。その後、肌着であった小袖が表着化すると、襟は内折れや外折れにする風が生まれ、髪で襟が汚れぬようにと、江戸時代から掛け襟が行われるようになった。小袖は主として長襟で、身頃と同じ布を用いた共襟だった。
小袖の襟は長着に引き継がれた。装飾と保護も兼ねて歌舞伎(かぶき)風といって、縮緬(ちりめん)、ビロード、黒繻子(くろじゅす)、紋塩瀬(もんしおぜ)などの別布を掛け襟として用いた。襦絆や下着の襟には半襟をかけたが、男物には羽二重(はぶたえ)や絽(ろ)、女物には縮緬、紋綸子(もんりんず)、塩瀬、絽、紗(しゃ)などが用いられた。
襟には棒襟と広襟と撥(ばち)襟がある。棒襟は、全体が同一の幅になっているもので、並幅の2分の1、もしくはそれより1センチメートルほど狭い。広襟は棒襟の倍の襟幅がある。これを内側に二つ折りにした襟を固定するために、首と両肩あきの3か所を糸で留める襟留めのくふうは、江戸末期より始まったが、いまでは並のものにはスナップ3組を用いることもある。撥襟は、胸のあきを隠す手段として、襟先にいくにしたがって幅広にしたものである。棒襟、撥襟とも、裏襟をいっしょに地縫いしてから襟幅に絎(く)けて仕上げる絎け襟にする。
女の長着の襟を外折れにする風は、11代将軍徳川家斉(いえなり)のころから始まった。じみな表地の長着の襟裏に千金を投じて、外出時には人に見せるためにこれを外折れにしたもので、これを裏襟という。また襟懸(えりかけ)といって、旅に出るときなど護符、文書、金銭などを襟に縫い込む風もあった。舞妓(まいこ)や半玉が一人前の芸妓(げいぎ)になるとき、赤い襟を白い襟に替えることから、これを襟替(えりがえ)といった。
奈良時代の女子の礼服、唐衣(からぎぬ)も垂領で、中世には襟幅が広くなり、10センチメートルほどの襟を外折れにして襟裏を見せて着用した。
[田村芳子]
室町時代末期に渡来した南蛮人の衣服は、武士たちに盛んに取り入れられた。江戸初期まで着られた男子の外衣で、羽織の祖ともいえる胴服もその例である。初めは小袖に別布の襟をつけ、外折れにして欧風の感じを出したが、衽を取り去るようになって今日の羽織の形になり、武士の日常着から庶民のものとなって、現在まで続いている。戦国時代の武将が着用した陣羽織も南蛮の影響を受けた。襟あきに、長方形の先端を丸く切り落とした別布の小襟をつけて外折れにしたり、その上にギャザーのある飾り布をつけたりした。
南蛮人の袖なしのマント、丸合羽(まるがっぱ)を着物にあうように直したのが袖付きの袖合羽で、この襟はなまこ襟という立ち襟であった。小襟が、竪襟(たてえり)下がりの中ほどまでつき、これは江戸後期まで続いた。その後、座敷合羽という被布(ひふ)の一種に分化するが、これは竪襟の角(かど)を紐で留め、小襟を外折れにして着用した。鷹狩(たかがり)のための鷹狩合羽からは道中着の道行が生まれたが、その襟は明治末期からは女子のコート(合羽)に取り入れられて、現在にまで受け継がれている。被布は、明治になると一般女子の正装用外衣となったが、1886年(明治19)に白木屋(しろきや)呉服店創案になる、丈をより長くした羅紗(らしゃ)やセル仕立てのあずまコートに移行したものの、昭和に入ると半ゴートにとってかわられる。これには道行同様に、道行襟、都襟、木瓜(ぼけ)襟、扇襟などがある。半ゴートなどには洋風の影響を受けたものも多くみられる。
[田村芳子]
今日の着物の襟は、宮中や神官の衣服、洋風のコート以外はほとんどが垂領系である。
[田村芳子]
身頃と共布で並幅(36センチメートル)の半分(半幅)に裁った長さ2メートルほどの襟が、左右の襟肩あきから衽下がりにかけてつく。男物ではこれを内側に折って襟幅5.5~6センチメートルに絎(く)ける狭襟(せまえり)とする。子供物、女物の浴衣(ゆかた)、ウールの普段着も絎け襟である。女物の上等の着物は襟幅11センチメートルの広襟に仕立てる。これには単(ひとえ)、袷(あわせ)ともに裏襟をつけ、襟留めには襟留め糸(またはスナップ3組)を使う。女物の普段着に用いる撥襟の襟幅は襟先で1、2センチメートル広くなっている。長着の後ろ肩あきの縫い込みが少ないのを補強するために、木綿の三襟芯(みつえりしん)(15センチメートル×30センチメートル)を入れて仕立て、本襟と共布の共襟(18センチメートル×80センチメートル)を汚れを防ぐためにも絎け付ける。このほか、丹前(たんぜん)には黒八丈や黒繻子の掛け襟(15センチメートル×150センチメートル)を、かい巻や子守半纏(はんてん)には綿ビロードの掛け襟(20センチメートル×120センチメートル)を掛ける。
[田村芳子]
長着と違って衽をつけないので、前幅を補うために絎け襟を裾(すそ)までつける。肌襦袢の襟幅は、着たとき表に出ないように2~4センチメートルと狭く、半襦袢、長襦袢の襟幅は長着に同じで、半襟(15センチメートル×80~90センチメートル)は多くは白だが、長着の色と調和する淡色のものを用いることもある。
[田村芳子]
襟は並幅か半幅に裁ち、男物は6~6.5センチメートル、女物は5.5センチメートルに折り畳んで、前身の幅を襟肩あきから裾まで切り落としたところにつける。薄いときには襟芯を入れる。着るときは、襟幅を後ろ襟肩あきで外側に二つ折りにし、乳布(ちぬの)から下は襟幅全部が表に返るようにする。
[田村芳子]
羽織の襟に似ているが、どこも折り返さずに着用する。襟幅は4~5センチメートルで、掛け襟は黒八丈の12センチメートル×120センチメートル。
[田村芳子]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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