( 1 )漢字は「洋袴」「細袴」「股袴」「下袴」「袴服」「穿袴」など、いろいろあてた。
( 2 )フランス語から来たものとされるが、jupon はペチコートの意で、それがなぜ現在のズボンの意味に用いられるようになったかははっきりしない。
腰から脚部にかけて左右別々に覆う西洋式脚衣(スラックス,パンタロン,パンツなど)の総称。語源は明らかではなく,はくとずぼんと足が入るところからそう呼ばれたともいう。またフランス語の〈ジュポン〉に由来するともいう。しかしジュポンjuponは,16世紀以来スカートにあたる〈ジュープ〉が女装として定着するにつれ,もっぱら女性用の下ばき(ペティコートの類)を指すようになったから,語義上の関係はない。
アラビア文化圏の伝統的脚衣シャルワールについては,ペルシア語の転訛語が多いといわれるが,イスラム進出以前の古代イラン文化圏にあっては,ギリシア人によって〈アナクサリデスanaxarides〉と呼ばれた長ズボンが早くも常用されていた。もっとも,ズボンの起源については,ペルシアに限らず,古代西・中央アジアの草原遊牧民の社会一般にさかのぼる必要がある。トルコ人とモンゴル人の共通の祖先とされるフン族(匈奴),基本的にはイラン系とみなされるスキタイ人やサルマート人などは,長い間,皮や革でつくられたチュニックとズボン,それにブーツといった装いであった。とくに長ズボンはステップ地帯の乗馬の慣習と不可分に結びつき,北方ユーラシアの冬期における防寒服としても機能し,遊牧民の長距離移動の生活を通じて,南ロシアから興安嶺にかけて広く分布するようになった。地域,民族による素材・形態上の相違はあっても,男がズボンをはく風習そのものは共通し,東北アジア方面では,アルタイ山麓からモンゴル高原を拠点にフン族を介して広まった。中国人はこの服装を〈胡服〉と呼び,朝鮮半島を経て,奈良時代の日本にもその余波が及んだ。唐代中国の女たちにとって,胡服の美姫の乗馬スタイルはあこがれの的であったというから,ズボンは古来男の独占物であったというより,〈馬に乗る人間〉の独占物であったといえよう。
西方ユーラシアでは,ズボンはスキタイ人やサルマート人によって北シリア,黒海沿岸,南ロシア方面へ広められた。古代オリエントの騎馬遊牧民は,ペルシア人ほどにはメソポタミアやエジプトのオアシス農耕社会の風俗に染まらず,前3世紀ころからはじまるヘレニズム文化の奔流の中にあっても,よく民族服の伝統を維持していたといわれる。一方,前6世紀の末ころから,ゲルマン人に先立って,ドナウ下流や近東に進出し,スキタイ人やペルシア人と接触していたケルト人は,前2世紀にフン族におされて西方へ移動する過程で,ゲルマニアとガリアに長ズボン(フランス語のブレーbraies)をはく風習を広めた。4世紀末以来ゲルマン民族移動の時代になると,今度はゴート人がサルマート人の乗馬術とズボンを西ヨーロッパにもちこんだ。こうして東方ステップの遊牧民起源のズボンは,蹄鉄(ていてつ)や鐙(あぶみ)など鉄の文明とともに,まず〈馬に乗る人間〉すなわち騎士の習俗として中世初期ヨーロッパに伝えられ,やがて馬耕の普及もあって,農村社会にも広まっていった。その後ズボンはさまざまな形態上の変遷を重ね近代的スタイルを確立する。
古墳時代,埴輪に見られるように褌(はかま)と称するズボン風の脚衣が着用されていた。南蛮文化が渡来する16世紀後半から17世紀初期にかけて,スペイン人やポルトガル人の当時の独特な脚衣を反映した,〈裁付(たつつけ)〉とか〈軽衫(かるさん)〉と呼ばれた男子袴が着用されるようになった。それらは江戸時代を通じて,その機能性からして,まず武家社会に,ついで庶民生活にも広く浸透した。農山村の労働着,防寒着として知られる〈もんぺ〉も,上部がゆるやかで裾がしまったその形式は,外来ズボンの影響をうけた袴と基本的に一致している。幕末には外国人の軍服の代用として,筒袖と裁付が盛んに着用され,明治以後になると軽衫はもんぺに転化していった。
日本の男子にとっては,袴を合理化したものにすぎないズボンは,容易に受けいれられていったと思われる。1873年の徴兵令とともに早くも西洋式軍服ができ,これがきっかけになって,官員や学生の制服にもズボンがとり入れられていった。これに対し,女子の場合は,鎌倉時代以来小袖が着物に転化していく過程で,袴をつけていた古い記憶は忘れ去られ,ズボンを受けいれる前提条件が欠如していた。さまざまなパンツ・ルックが女性の間に広く普及するのは,日本でも西洋でも第2次世界大戦後の1950年代からのことである。ただ日本の場合,筒袖にもんぺが戦時中の女の普通の装いであったから,袴ではなく,もんぺがズボンの前史の役割を果たした。なお,中央アジアから中近東にかけてのイスラム圏の〈シャルワール〉ともんぺの共通性も知られている。
執筆者:井上 泰男
ゆるやかな長ズボンのブレーが西欧にもたらされると,男子はブレーや,ぴったりした長靴下のホーズhoseをはいた。16世紀の男子服は胴衣,膝丈の半ズボン,靴下で構成され,半ズボン(キュロット,ブリーチズ)には詰物をしてタマネギ形などに膨らませたり,太股にぴったりさせた形のものなどが用いられた。17世紀にはラングラーブrhingraveと呼ばれるスカート状の,上脚部の半ばくらいの長さで,腰や裾にリボン飾りのついたズボンを,キュロットの上にはいた。この時代にベネチアでは,釣鐘形のスカートの下に,男子と同じキュロットをはいた女性も現れ,膨らんだキュロットは,ガレー船を漕ぐ奴隷のズボンと似ていたので,〈ガレー船の奴隷風ズボン〉とも呼ばれたという。フランス革命後,長ズボンをはいて貴族に対抗したサン・キュロットの影響をうけて,半ズボンの丈は膝下まで長くなり,18世紀の終りには,体にぴったりした長ズボンのパンタロンが普及し,グレー,ベージュ,白など明るい色が好まれた。しかし,その後暗色系が多くなり,ズボンの形も垂直になり,イギリスでは三つ揃いのスーツが現れた。19世紀に,女性の社会的進出が顕著になると,乗馬にズボンを着用する女性も現れ,ジョルジュ・サンドは,男子と同等の仕事をするために男装をしたことで知られた。後半には,アメリカのアメリア・ブルーマーらが,女性の服装の合理化を主導し,裾を絞ったズボンであるパンタレッツ,いわゆるブルーマー・スタイルの着用を推進するなど,女性のズボン着用の先駆をなした。
20世紀になると,イギリスで始まった男子のズボンに折り目や裾の折り返しをつける風習が世界各国に広まり,裾の幅の広さが男子服の流行の一要素となった。共布で作られた男子の背広一揃いに,ズボンだけが替えズボンとして現れ,スラックスと呼ばれた。かつては禁令の対象ともなった女性のズボンも,第1次世界大戦ころに制服としてとり上げられて以来広まっていった。1960年代のブルー・ジーンズの流行は,オート・クチュールによるパンタロン・スタイルの発表とあいまって女性のパンタロンの着用を容易にした。日本でも,戦後の洋装の一般化に伴い,さまざまの流行のスタイルを生み出しながらあらゆる層に普及し定着した。
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
洋服での下体部を覆う、二またに分かれた筒状の表着を総称する日本語。
[石山 彰]
明確でないが、大別すると二説ある。(1)は、フランス語のジュポンjuponの転訛(てんか)語とする説(『広辞苑』『日本国語大辞典』『荒川・外来語辞典』など)。(2)は、擬声語ともいうべき「ずぼん」または「すぽん」という副詞からとする説である。(1)のジュポンというフランス語は元来、女性のペティコートの意味ではあっても、男性用のズボンの意味はない。なぜ、いつごろからこの説が流布するようになったかは不明で、このことから『日本国語大辞典』でも次の記述がみられる。「ペチコートの意味のフランス語juponが、なぜ現在の意味に用いられるようになったかは、はっきりしない」。ズボンという呼称は幕末から、当時のいわゆる「段袋(だんぶくろ)」(駄荷袋の音便)の俗称として使われた。段袋とは、大きな袋を意味すると同時に、洋服の太いズボンを意味している。こうしてズボンの語が初めて文献に登場するのは、片山淳之助(じゅんのすけ)(実は福沢諭吉)の『西洋衣食住』(1863)のなかの「ズボンつり」においてである。また、仮名垣魯文(かながきろぶん)の『万国航海西洋道中膝栗毛(ひざくりげ)』(1871)には、「チョッキ」「マンテル」「沓(くつ)」「ズボン」と記されている。また同じころの『開化往来』にも「大褲(ももひき)(俗にズボンまたはたんぶくろ)」とある。こうしてズボンの語は明治初期に市民権を得たとみられる。
ところがやがて(2)の説を裏づける記述が現れた。落合直文(なおぶみ)編『言泉(ことばのいずみ)』(1912)で、これには「ずぼん、洋袴、幕末の頃(ころ)、幕臣大久保誠知といふ人これを穿(は)けば、ずぼんと言い初めたる語なりといふ。洋服の下部、足に穿(うが)つもの、形、股引(ももひき)に似たり」とある。(1)の説は単に発音が類似しているからという比較的単純な理由に基づく。これに対し(2)の「ずぼん(と)は、物が抜けたり、落ちこんだり、はずれたりなどするさまを表わす語」「すぽん(と)は、物がうまい具合に、一気に、抜けたり、はまったりなどするさま、また、その音を表わす語」(日本国語大辞典)と記されている。ズボンの意味を表す漢字としては、洋袴、細袴、股袴、下袴、袴服、穿袴などがあてられた。
いずれにせよ、ズボンに該当する英語は、一般にはトラウザーズtrousers, trowsers、アメリカではスラックスslacks(元来、ゆるいものの意)、パンツpants(パンタルーンpantaloonsの略)、フランス語ではパンタロンpantalonであり、わが国の洋装用語では、これらが入り交じってズボンを表す外来語として用いられている。
[石山 彰]
フランスの南部やスペインに残された後期旧石器時代の遺跡には、毛皮をまとった人物や、毛皮のズボンだけをつけた人物が描かれている。他方、エスキモーの毛皮の着衣からしても、ズボン形式の衣服の誕生は、少なくとも石器時代にさかのぼると推定される。中央アジアを原住地とした騎馬遊牧民族アーリア人は、紀元前2500~前2000年代から徐々に南下し始め、前7~前5世紀には黒海北部からメソポタミアに達した。その確実な証拠はカフカス地方の遺跡、とりわけスキタイ文化やペルシアの遺跡にみられる。もっとも有名なのは、ペルセポリスのダレイオス宮殿の遺跡(前6世紀ころ)や、さまざまなスキタイ人の遺物(前5世紀ころ)で、これらには明らかにズボン形式の着衣を特徴づけた、北方民族の姿がみごとに浮彫りされている。
古典古代に入ると、ギリシア人は、フリギア人やアマゾンの姿として、ズボンをはいた異邦人を描き、一方、ローマ人は「ブラーカエbracae(ズボンのこと)をはく野蛮人」として北方ゲルマン人を軽蔑(けいべつ)した。4世紀後半の民族大移動の開始とともに、北方系の衣服を特徴づけるズボン形式はユーラシア大陸の各地へと拡大していった。中国にみられる胡服(こふく)や日本の埴輪(はにわ)にみられる衣褌(きぬばかま)も、そうした歴史的現象の一環であり、他方、ヨーロッパでのローマ末期からビザンティン時代にかけての北方系衣服、つまりズボン形式の浸透もそうである。また、中世初期のイスラム教徒は、男女ともたっぷりしたズボンつまりシャルワールshalwarをはいている。こうして、やがて西洋中世の男子もズボン形式が一般となった。フランク人の男子は緩やかなズボンをブレーbraies、靴下をショースchaussesとよび、イギリスでは緩やかなズボンをブリッチズbreeches、靴下をホージズhosesとよんだ。
14~15世紀になって上着が短くなると、ショースやホージズが下体衣の中心となり、ぴったりしたタイツ状の脚衣が定着する。この形式は事実上17世紀なかばまで持続するが、その間の16世紀には、腰部から大腿(だいたい)部を覆うきわめて独特の脚衣が現れた。フランス語ではこれをオー・ド・ショースhaut-de-chausses、英語ではアッパー・ストックスupper stocksまたはトランク・ホージズtrunk hosesとよんだ。
17世紀の第3四半期には、男性にも一見スカート状の奇異なズボンが現れたが、フランス語ではこれをラングラーブrhingrave、英語ではペティコート・ブリッチズpetticoat breechesとよんだ。男性のズボンはその後、長上着の登場とともに一転して、ぴったりした半ズボンつまりキュロットculotteに変わり、以後18世紀末まで続いた。
今日のような長ズボンは、それまでの水夫や職人などの小市民が着けていたものをフランス革命時の過激共和派の人たちが用いたもので、このことから革命時の小市民や革命党員をサン・キュロットsans-culottes(半ズボンをはかない人々の意)と名づけたのは有名であるが、定着するのは19世紀も20~30年代になってからであり、さらに背広服が出現するのは19世紀もなかばのことである。
[石山 彰]
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…それまでの突く直刀から反りのある刀への変化も,前進しつつ切るための当然のくふうであり,半月刀ほどの反りはなくとも,日本刀にも反りが生じている。またズボンと筒袖の上着の普及は,騎乗の普及とともに伝播(でんぱ)し,ゲルマン人やケルト人はもちろん,中国人さえ胡服といって,それを受け入れた。ただ騎馬の出現の歴史的意味は,この程度のことにとどまるものではなかった。…
…胸当てつきのゆったりしたズボン。白,青の厚地デニムなど木綿で作られ,肩紐つき,脇留めの形が多い。…
※「ズボン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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