中国法(読み)ちゅうごくほう

改訂新版 世界大百科事典 「中国法」の意味・わかりやすい解説

中国法 (ちゅうごくほう)

数千年の古い歴史をもつ中国の法制は,刑法たる律を中心とし,社会とともに変遷してきたので,その経過の大体をとくに政治経済と関連せしめて叙述したい。対象は近代以前に限る。まずどこまでさかのぼるかの問題であるが,中国の古代に氏族制度が行われたことはほぼ疑いないので,中国最古の法制は氏族法であったに違いないと思われ,その遺制が歴代を通じて清朝末期まで続いたものがある。それは婚姻法と相続法の上に強く残り,同姓の間では,たとえ起源の異なる姓であることがわかっていても婚を通じないこと,また祖先祭祀の相続権は男系に限られて養子を認めないことが,長く中国慣習の特色となってきた。

氏族制は,殷・周時代に普遍的に行われた都市国家の中に持ちこまれると,やがて後退し,代わって都市国家法が生まれた。その詳細は知るべくもないが,《書経》の中の呂刑という篇が,そのおもかげを伝えていると思われる。都市国家内部にはあたかもギリシアのそれのごとく,支配階級たる士と,被支配階級たる庶民の対立が見られたが,呂刑にいうところの贖罪の制は士に適用さるべきもので,いわゆる五刑,すなわち肉体刑の五等は庶民に適用されたものと思われる。その五等とは,墨は顔に入れ墨すること,劓(ぎ)は鼻先を切りおとすこと,剕(ひ)は足を切ること,宮は男子の勢を去って中性となすこと,大辟は死刑である。最初はその法律が習慣法で,支配層に有利に運営されたため,その弊を去るためしだいに成文法が用いられ,あるものは銅鼎に銘文として彫りこまれ,あるものは竹簡に書かれた。都市国家時代には領土という観念が稀薄で,人民の居住地の周囲の城郭がすなわち国境であり,城門によらずして,城郭を乗り越えることは厳重に禁止されたが,これが長く後世に残って越城の禁と称せられた。

 都市国家は春秋時代の攻戦によって,弱肉強食が行われた結果,大都市が小都市を併合し,戦国時代に入ると強大な専制君主権力の下に領土国家が成立し,いわゆる七雄国対立の形勢が続いた。法律もこれに従って変遷し,それぞれの国にそれぞれ異なった法律が生じ,新たに重要性を増してきた国境の内部に施行された。孟子が諸国を遊歴する間,次の国境に入るときには,その国の大禁を問うを常とした,と言ったのはまさにこのような状況の下においてであった。この時代の領土国家法は断片的に古記録中に散見するほか,1975年に湖北省雲夢県の睡虎地で秦代の古墓から発見された竹簡の中に含まれている法律文書があり,それはなお領土国家法のおもかげをとどめていると思われる。何となればこの文書の中に始皇30年(前217)の日付を含むが,そもそも秦国の法制は,始皇一代を通じて領土国家法の段階にとどまり,天下に通用する普遍法の段階に到達することができなかったと思われるからである。実は秦は天下統一ののちに,本国から秦の吏を各地に派遣し,秦の固有法を強制して人民を支配せしめたことが,人心を失い天下の離反を招く原因であったのである。例えば戦国秦の法で国内の壮丁全員に北方国境の警備に旅費自弁で出動する義務を負わせたのは実行可能であったが,天下統一ののちに南方の楚の領土であった土地にまで同じ負担を強制したから,人民が不満を爆発させて反乱に立ち上がったのはむしろ当然であろう。

 秦が内乱に倒れた後,長い漢・楚の抗争を経て,漢が天下を統一したが,もちろん全国的な普遍法はすぐには生まれない。やむをえず秦の法制に応急の修正を施して用いたが,なおはなはだ不完全なるを免れなかった。そこで遠隔の地には王を封じて領土を与え,その領内には漢の法制とは別にその土地に適した立法を行うことを許した。しかしそれでは統一国家とはいえないので,しだいに封建領主を取りつぶし,同時に法制を整備して,天下通用の漢律を制定した。それが完成の域に達したのは7代の武帝(在位,前140-前87)のころであったと思われる。

 秦律は魏からの亡命者,商鞅が孝公に重用されてから以後,もっぱら法家が朝廷に勢力を得て,その立法もしたがって法律万能主義により,刑罰が重きにすぎる弊があった。漢に入って秦の失敗にかんがみて,儒家がさらに勢力を伸ばし,立法裁判に儒教主義を加味すべきを唱え,法家と儒家の勢力争いがたびたび起こった。漢代には律のほかに,補助的な任務をもつ令も制定されたが,この律令は時代とともに変遷し,儒教思想を含むことが多くなった。この傾向は前漢の末から,後漢にかけてとくに著しく現れた。

漢律令は三国魏によって受けつがれ,晋,南朝梁を経て陳に至って断絶したが,一方北朝の北魏は漢律令を受けて,独自の律令を制し,それが北斉を経て隋の律令となり,これが唐律令の母法となった。漢律からここに至る間に決定的となったのは,法制をもっぱら儒教主義によって解釈運営することになった事実である。

 唐の律令は何度か改編されたが,律令なるものはそれ自身が完全な体系を成しているべきものと考えられ,補助的な格式などによってその実施に多少の修正を行うことができても,律令の本文を部分的に改訂するのは許されなかった。もし部分的に改訂する必要があれば,根本的に新律令として制定し直さねばならなかった。そこで制定のたびにその時の年号によって永徽律とか,開元令とか呼ぶ習わしである。現今唐の律令格式のうち,令格式は散逸して,開元律(737(開元25)制定)のみがほぼ完全に残っている。律は刑法であるが,令は政治のまさにあるべき形を命じた行政法のごときもの,格は部分的に律令の実施を変更するもの,また資格の格のごとく,ある条件に対してある資格が与えられるという規則など,式は令を補う細目で文書の書式などをも含む雑則である。唐の法制は日本に輸入され,これを模範として律令格式が編集されたが,現在まで残っているものとしては成立時の年号でよばれる大宝令と延喜式とが有名である。

 律令をあたかも現時の憲法のような根本法典とするがゆえに,中国の唐も日本の平安時代も等しく律令国家と呼ばれることがあるが,ただ注意すべきは,中国においては唐は律令時代の末期に当たるが,日本において平安時代は律令時代の草創期に当たることである。さらに法制の背景をなす社会構造も根本から異なっているので,もし律令という名を共通にするという理由で,両者の社会を等質とみなそうとするならば,大きな過誤に陥るおそれがある。
律令格式
 唐律に定める刑罰に五等あり,これを五刑と称するが古代の肉刑の五等とは異なり,笞・杖・徒・流・死をいう。笞も杖も背を鞭打つ刑であるが,竹または木をもってつくり,笞は細く杖は太い。笞に10打から50打まで5級,杖に60打から100打まで5級ある。徒は強制労働で1年,1年半,2年,2年半,3年の5級あり,流は本籍地より2000里,2500里,3000里の3級がある。死には絞と斬があり,絞首と斬首で,斬は即時に実施し,絞は秋を待って行うの別がある。

 唐律は歴代の律を集大成したもので,とくに儒教主義を根本理念とするので,後世の儒家から高い評価を与えられている。同時に儒教の立場を離れて裏側から読めば,これが刑法かと疑いたくなるような条文も存在する。唐律の眼目とするところは,第1に家族制度の護持であり,第2は社会における階級制度の維持である。ゆえに同一犯罪には同一刑罰という原則でなく,同一犯罪が家族内の尊卑,社会階層の上下により,いかように差等をつけて刑罰を加えるかの規定が詳しく列挙される。すなわち同一行為であっても家族内の卑幼が尊長に加えたときは重く,尊長が卑幼に与えたときは軽い。この差等は近親の場合ほど大きく,疎遠となるにしたがって小さくなる。社会階層の間における場合もこれに準ずる。

 平等な人民間の殴打の場合,加害者に対する刑は笞四十で,これが標準となる。もし親が子をなぐっても懲戒権の行使であるからもちろん無罪。しかるに子が親をなぐった場合は,斬刑であるから,17等重くなるわけである。子孫は父母,祖父母に対して絶対に服従すべきことを求めるのが唐律の精神であり,単にその利益を侵害するのを許さないばかりでなく,形式的な孝行の義務を尽くすことをも命じる。父母が死亡したときは3年間喪に服し,謹慎して生活せねばならず,もしその間に喪服(そうふく)を去って吉事に従い,または音楽を楽しむようなことがあれば徒三年の刑に処せられる。もし喪服のままで吉事に参預しただけでも杖一百である。あるいは期間中に結婚を行えば徒三年,さらにはその間に子を生む者は徒一年という規定さえ設けている。

 唐律は旧来の習慣を尊重し,別に道義に違犯しない行為をも禁止するところがある。同姓間の婚姻を禁止するごときがそれで(同姓不婚),違反すれば徒二年である。ただ文字は同姓でも,実際には系統を異にすることが明白な場合は,この限りでないと注釈するにかかわらず,民間では一様に同姓婚を回避する風習が根強く,つい最近まで続いた。この慣習の根源をなすものは徹底的な女性蔑視,男系相続の思想であり,異姓の養子を認めない点にあるが,唐律でも異姓の男子を養子とした者には徒一年と定める。したがって中国社会では女の子は何人あっても,それは他家へ嫁入らせねばならぬから,家を相続させることも,老後を託することもできない。それは同姓から養子を迎えても娘との結婚が禁ぜられ,異姓の男子は養子にすることができぬからである。この慣習は現今までも根強く社会に残り,女児が生まれると間引く(溺女)という弊害の復活する傾向があるといわれる。

 女性蔑視の原理は唐律の他のあらゆる分野に認められる。夫と妻とはけっして平等でなく,夫は妻に対して懲戒権をもち,単になぐるまでは無罪,なぐって傷を与えた場合は,普通よりも2等軽く罰せられるが,妻が夫を殴打した場合は徒一年に処せられる。ただしこれは親告罪とする点に救いがある。

 唐律は社会における階級秩序の維持を眼目とする点で封建的であり,官長と部下,良民と賤民との相互間の犯罪に差等をつけた詳細な規定があること,家族の尊長と卑幼間の場合に似通う。奴婢と部曲はいずれも主人に隷属する不自由な賤民であり,部曲が良民をなぐるときは普通よりも1等重く,奴婢の場合は2等重く罰せられるだけであるが,もし部曲奴婢が主人をののしっただけでも流刑に処せられる。これに対し主人は広範な懲戒権をもち,部曲奴婢を殴打しても死に至らなければ罰せられず,罪のない奴婢部曲を殺せば徒一年,罪がある場合は官司に請うて殺すことができ,無断で殺すときは杖一百と定める。奴婢はある程度まで政府の保護を受けるとはいえ,その実質は奴隷に近い。しかし部曲は奴婢より上層の賤民で,名のごとく集団的な隷農たる性質を有し,西洋中世の農奴に近いものである。

 唐王朝はもともと封建的な武力国家であり,その武力の根源は土地と農民であった。すなわち均田法により土地を農民に分配し,農民から租として食糧を,調として貨幣に代わる絹を,また壮丁を労力,兵力として徴発した。しかるに大規模な外征が永続する間に農民が疲弊して没落すると,均田法が崩壊し,土地人民は有力者の荘園に併呑されていった。そこで政府は土地所有形態のいかんを問わず,確実に税収を挙げる方法として間接税を創設拡大した。すなわち食塩,酒,茶を専売として重税を課し,商品に対して通行税を徴収し,この益金を課利と称したが,国家財政の大半は課利によってまかなわれることになった。そこで唐王朝はその中期から変質して,経済国家に生まれ変わった。これとともに法制のうえでも旧来の律では新事態に対応することができなくなり,律に代わって勅が重要な位置を占めることになった。

 唐王朝がその新経済政策を遂行するためには,専売品の密売,通行税の脱税などを厳しく取り締まらねばならなかった。しかし政府が取締りを厳しくすれば,民間でもこれに対して新戦術を考案し,政府はさらにこれに対抗する方法を考えねばならなくなる。このためには旧来の律はまったく無力であり,政府はときどきに新しい政策と取締りの刑法を発布せざるをえず,これを勅と称した。勅は道徳や理想を追求するものでなく,必要に迫られてそのつど発布されたものであるから,これをまとめて編纂し直し,永久的な体系を与えようとしても不可能であり,またその必要もなく,ただ実用の目的のために過去の勅を年代順につづりあわせることで間にあわせ,これを編勅と称した。旧来の律は儒教主義にのっとり教育的であるが,勅は功利主義で法家的であるため,儒家からは非難を受け排斥される。しかし現実の政治のうえでは,勅は律に代わって最も重要な刑法たる位置を獲得し,宋代には律令格式といわずに,勅令格式という言い方が普通となった。

現今まで残っている宋代の法典としては,まず《宋刑統》が挙げられるのが常であるが,その内容はほとんど唐律そのままであり,史料的価値が少ない,しかしこれによって唐代の律が,宋代にも通用したことを知りうるので,事実《宋刑統》は判例などに律として引用されている。宋の編勅は今日に残っていないが,その大要は断片的な記録の中から再編成することができる。勅によって律の適用を修正した最も重大な点は五刑の規定の読みかえを行って,著しく軽減したことである。これを折杖の法といい,太祖(在位960-975)の定むるところであり,その趣旨は律の流刑に対して背に杖を加えたうえで徒刑に処し,徒以下はすべて杖を加えて放免するにあった。その杖もはなはだ軽く,徒三年の刑には背に杖二十,杖一百に対しては臀に杖二十,笞五十に対しては臀に杖十ですませた。

 唐律に定める死刑には斬と絞の2等あったが,唐代初期においては死刑囚はきわめて少数であった。当時の死刑はほとんど殺人罪,または不敬罪に限られていたからである。しかるに新経済政策が採用されるに及んで,密売等の経済事犯は重刑を科せられるので,急に死刑が多くなってきた。宋初に及んでも同様で毎年死刑の判決を受ける者が数千人にも上った。さすがに政府はこれらをことごとく死に処するわけにいかず,犯人を都に送らせ,その多くは天子の特恩によって死一等を減じ,代りに遠方に配流してその地で苦役に服せしめることとした。最初は天子の特恩による格別の扱いであったが,この例が長く続くうちに固定した慣習となり,最初から配流という刑が宣告されるようになった。そこで折杖の法によって,徒刑に読みかえられて消滅したはずの流刑が,新たに配流という形で復活し,結局,死,配流,配役,背杖,臀杖という5等の刑が成立した。

 唐律が詳細な相互間の犯罪に対する刑罰の差等を定めた奴婢,部曲という階層は宋代では消滅している。奴婢という名は残っているが,それはもはや唐律の奴婢ではなく,生涯契約の長期奉公人である。しかるに宋代に入って新たに地主とその小作人たる佃戸との間の犯罪に軽重の差を設ける法律が作られた。まず北宋の中期から,佃戸が地主を殴打したときは普通よりも1等重い刑罰に処し,地主が佃戸を殴傷したときは1等軽くするという特例を開き,南宋に入ってこの差等を各場合とも2等とすることに定めた。この事実からもし佃戸は農奴的な不自由民だと解釈するならばそれは行過ぎである。佃戸は自由契約によって地主から土地を借りるが,佃戸というのはそういう環境にあるあいだだけの特殊な位置であり,けっして封建世界の身分のように固定したものではない。佃戸は小作料を完納すればいつでも土地を返還して,地主との関係を絶つことができ,これを辞離と称した。もし地主が一方的に借地を取り上げると,徹佃と称して無慈悲な行動とみなされ,それはけっして農奴解放のような美挙ではない。それのみかもし佃戸を身分としてみようとしても,その解放規定がどこにもない。佃戸はあくまでも自由民であり,刑法上に劣位におかれるのはその地主に対してだけであり,その他の人民に対してはまったく平等であった。唐代の部曲の一般人に対する犯罪をも重く罰すると定めたのとは事情を異にする。

 宋代の刑法は勅と律のほかに判決例もまた法律的効果をもったが,政府の手で編纂されることなく,官衙の胥吏(しより)の手もとに保存され,これを断例と称した。南宋が滅びると宋代の勅は無効となったが,断例は元代の実際の裁判のうえに影響を及ぼしたと思われる。宋に代わったモンゴル族の元はその初期において,前代の金の法制をそのまま襲用したのはきわめて自然の成行きであった。南宋と対立して華北を支配した女真族の金は,唐律にのっとっていわゆる泰和律を制定したが,これを実施する際に刑罰の読みかえを行って現実に適合させた。ただし泰和律の定めた罪の範囲はほとんど唐律の範囲にとどまっているので,これを補うために,新定勅条なるものを設けて付録とした。これは宋の勅に当たる。

 元朝独自の法典としては至元新格,大元通制などの名が知られているが,いずれも不備なものなので,学者等はしきりに唐の律令にも比すべき一代の大法典を編纂すべきを論じた。これは律といえば儒教を根本におかねばならぬので,それが編纂施行されることは,同時に儒家の地位向上を意味したからである。しかるに元代は胥吏が政治上,儒家と対等に用いられていたので,彼らにとって法律の理論や体系は無用であり,裁判には先例となる判決,すなわち断例の堆積があれば十分と考えた。結局元一代には不滅の法典は出現せず,官衙に保存された断例集が民間人の手によって出版されて用いられたが,《大元聖政国朝典章》,略して《元典章》がそれである。《元典章》は当時の俗語のほかに,裁決に当たる天子宰相の対話にモンゴル語の文脈が含まれてはなはだ読みにくいが,生の法制資料として貴重視される。《元典章》の特徴の一つはその編目が官衙の構成に準じて,吏戸礼兵刑工の六部に分類されていることで,これが後世の法典の形式となった。

 モンゴルを北方に駆逐して中原を回復した明の太祖は唐の盛時を再現せんとする意気込みをもって律令の編纂を命じた。政府は初め唐律に範を取り件別に分類して編目を立てたが,それでは実際にはなはだ不便であることがわかり,改めて《元典章》にのっとり,六部に区分し直して編纂したのが1397年(洪武30)の《大明律》である。これが以後長く東亜の刑法の標準となり,明をうけた清朝の《大清律》も内容はほとんど変わるところがない。明律はその家族法において唐律の儒教主義を引き継ぎ,ただそのあまりに形式にすぎた点を改めているので,学者のあいだに好評を博した。江戸時代の日本でも明律の研究が盛んで,とくに荻生徂徠の《明律国字解》が出色の作とされている。

 明律では奴婢および雇工人に関する明文があってその地位を規定している。奴婢は重罪を犯して没入され,人格を失った特殊な存在であるが,宋代にほとんど消滅しかけていた奴婢が再び出現するにいたったのは,モンゴル時代の奴隷制が影響を残したものと思われる。家長の奴婢に対する権限は強大で,もし奴婢に罪があれば官司に告げてこれを殺すことができる。もし無断で殺すときは杖一百。もし奴婢に罪がないのに殺した場合でも杖六十,徒一年ですむ。これでは唐律とほとんど変わるところがない。

 明律に新しく加わった条項は雇工人の律であり,雇工人とは長期契約による召使いである。家長は雇工人に対して懲戒権をもち,なぐっても傷害を与えなければ問題にされない。傷害を加えた場合は普通人に対してよりも3等軽くすると定めるのは宋代の佃戸に対する規定とはなはだよく似ている。明代民間のいわゆる奴婢は実際にはこの雇工人の律によって取り扱われたと思われる。

 明代には国初の大明令のほかに,万暦年間(1573-1619)に至って《大明会典》の編纂が行われ,これは政府の各衙門の職掌を詳述した行政法ないしは服務規程のごときものである。会典の編纂は清朝に入って盛行し,康煕,雍正,乾隆,嘉慶,光緒の各代に勅撰された。乾隆会典以後は,その内容の付則的な部分を本文から抜き出して別に則例または事例と名づけて付録としたが,光緒会典に至って,本文は100巻なるに対し,事例は1220巻,さらにこれに図270巻を付した膨大なものとなった。別に各衙門においてそれぞれ則例なるものを編集し,その多くは出版公布されているので,清一代の法典は莫大な量に上っている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中国法」の意味・わかりやすい解説

中国法
ちゅうごくほう

中国で行われる法体系。フランス語やドイツ語では,法と権利とが同じ言葉で表現されるように,ヨーロッパでの法は権利の概念を中心に発達してきたが,中国での「法」 faは権利ではなく,刑罰を中核にして発達した。

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