現行刑法は、罪を犯した者に言い渡せる刑(主刑)として、死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留、科料を定める。主刑に付加して科せる刑(付加刑)の没収もある。懲役・禁錮の実刑判決を受けたり、有罪判決の執行猶予が取り消されたりした場合、刑務所や少年刑務所で刑に服する。有期の場合、刑期の上限は20年で、複数の罪を併合する場合などは30年になる。
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犯罪に対する法律上の効果として,犯罪を行った者に科せられる制裁をいう。日本の現行法は刑罰という語を用いないで刑と呼んでいる(刑法第二章)。現在では,犯罪に対して犯罪行為者に刑を加える権能を国家が独占しているのが通常である。
犯罪に対して刑罰を加えることはどのような意味があるのか,という刑罰本質論については,いままで多くの論議が展開され,現在でも一致した答えがあるわけではない。大別すれば,応報刑論と目的刑論がある。応報刑論と教育刑論が対立するとよくいわれるが,教育刑論は目的刑論の一種である。
応報刑論は,刑罰は犯罪を行ったことに対する報いとして加えられることに意味があるとする。刑罰が意味をもつのは,犯罪防止の効果によってではなく,犯罪に対する応報であること自体であるというとき,それは絶対的応報刑論の主張となる。しかし,現在では,刑罰は応報であるが,応報であるということだけに意味があるのではなく,犯罪防止の効果があり,そのために必要な範囲内で意味をもつという考え方が相対的応報刑論として有力に主張されている。
これに対して,目的刑論は,刑罰は犯罪が行われないようにするために,犯罪予防の効果を目的として加えられるとする。目的刑論は,さらに,一般予防論と特別予防論に分けられる。一般予防論は,刑罰は犯罪者以外の一般人が犯罪におちいることを予防する効果があることに意味があるとする。現在では,その一般予防効果は,刑罰による威嚇によってだけではなく,刑罰による一般人の規範意識の確認・強化を通じて発揮されると考えられている。特別予防論は,刑罰は犯罪者自身がふたたび犯罪におちいることを予防する効果をもつことに意味があるとする。その特別予防効果は,犯罪者の社会復帰を図ることにより達成されるとして社会復帰刑論とも呼ばれる。また,犯罪者の改善を図ることにより達成されるとして改善刑論,犯罪者の教育を図ることによって達成されるとして教育刑論とも呼ばれる。
このようなさまざまの考え方を時代思潮との関係でみると,18世紀末から19世紀初頭にかけて,市民社会の成立期に,アンシャン・レジームの過酷な刑罰制度を改革して合理的なものにしようという目的で主張されたのは,主として,一般予防論ないし相対的応報刑論であった(前期旧派)。他方,19世紀の中ごろから,とくにドイツでは,観念論哲学に基づいて絶対的応報刑論が主張された(後期旧派)。これらに対し,19世紀後半になると,資本主義の発達がもたらした社会変動にともなう犯罪の激増,とくに累犯の増加という状況に対して,犯罪者に応報あるいは一般予防のために刑罰を加えても,犯罪をくり返す人々がいる以上,犯罪対策として意味がないという主張がなされた。そこでは,犯罪者に対する特別予防のために刑罰を加えることによって社会を防衛しようとする考え方が強くなったのである(新派)。その考え方は,刑罰では再犯を予防し,社会の安全を防衛するのに不十分な場合があるという理由で,刑罰を補充し,または刑罰に代えて,行為者の危険性に対応する制度として保安処分を設けるべきであるという主張に連なっていくのである。
ところで,刑罰という複雑な歴史的・国家的制度を,応報とか一般予防とか特別予防とかいう一つの考え方で意味づけることができるかは,問題である。一つの考え方を絶対化するのでは,刑罰の実態をとらえることができないし,その妥当な運用もなしえないからである。そこで,現在では,三つの考え方を統合しようとする統合説が有力になっている。が,問題はどのように〈統合〉するかにある。たしかに,刑罰は過去に犯罪行為をしたことに対する反作用として科せられるし,刑罰の内容は利益剝奪という苦痛である。さらに,刑罰は犯罪と均衡のとれる範囲内のものでなければならない。以上のことを〈応報〉というならば,〈応報〉の要素は現実の刑罰に存在している。しかし,過去の犯罪行為に対する反作用であるとしても,刑罰は,犯罪防止のためになんらかの効果をもつものでなければならない。国家が犯罪防止になんの効果もないのに刑罰を科す権能と任務をもつといえるかは,疑問である。したがって,一般予防効果と特別予防効果は重要な意味をもっている。もっとも,その考え方には,次のような限定が必要である。まず,刑罰の一般予防効果も,特別予防効果も,現在の段階では,明確に測定できるものではない。しかも,犯罪防止のためには,社会政策,教育などの刑罰以外の手段のほうがはるかに有力である。そのことの自覚は,刑法の謙抑主義と結びつかなければならない。さらにまた,刑罰の一般予防効果と特別予防効果という功利的な目的を追求するとき,社会防衛のために過度の刑罰を科すことになる危険がある。その危険を防ぐためには,刑罰は,行為責任(過去の犯罪行為に対する非難可能性)の限度をこえてはならないという意味での責任主義の原則を守らなければならない。それは,罪刑法定主義とともに,個人の尊厳と自由を国家刑罰権の濫用に対して保障するための原則である。
刑罰の種類を歴史的にみると,あらゆる残虐な刑罰が存在していたといっても過言ではないが,近代以後の文明国ではしだいに人道的・合理的なものになってきている。日本国憲法でも,残虐な刑罰を絶対に禁止することが宣言されている(36条)。18世紀の絶対主義国家に至るまで,死刑とともに刑罰制度の中心をなしていた身体刑すなわち身体を傷つける刑罰は,現在では文明国からほとんどその姿を消した。身体刑は,たとえば手や足を切る刑,笞刑(ちけい)(身体を笞(むち)で打つ刑)などであり,日本でも笞刑は明治初年まで存在した。
日本近代以後の刑罰を歴史的にみると,そこには,身体刑に代えて自由刑・財産刑を刑罰制度の中心とし,その自由刑をも単純化していくという一般的な刑罰史の流れに沿っている。まず,明治維新直後の1868年(明治1)に制定された仮刑律は,基本的に律令制度にならって,笞,徒(ず),流(る),死の4種類の刑罰を認め,次いで70年に制定された新律綱領も,笞,杖(じよう),徒,流,死の5刑をおいていた。が,73年に制定された改定律例は,明清律のほかにヨーロッパ法をも斟酌(しんしやく)し,従来の5刑制を廃止し,笞,杖,徒,流の4種を改め,すべて懲役とした。やがて,フランス刑法を範とした旧刑法(1870公布)は,きわめて多様な自由刑を認めたために,刑名も多くなった。死刑,徒刑,流刑,懲役,禁獄(以上,重罪の主刑),禁錮,罰金(以上,軽罪の主刑),拘留,科料(以上,違警罪の主刑),および,剝奪公権,停止公権,禁治産,監視,罰金,没収(以上,付加刑)がそれであった。現行刑法(1907公布)は,刑の種類をはるかに制限し,徒刑(とけい),流刑(いずれも,犯罪人を離島などの遠隔地に送致し,その地において有期または無期間滞在させる刑。徒刑は〈定役〉に服すが,流刑は〈定役〉に服さない)を認めず,また,剝奪公権,停止公権という名誉刑を廃止したのである。
現在の諸国で認められている刑罰の種類は,大別すると,生命刑,自由刑,財産刑,名誉刑に分けることができる。
生命刑は,生命を剝奪する刑罰,すなわち死刑である。18世紀までの刑罰制度では主要な刑罰としての地位を占めたが,文明の発達とともにその重要度は減じつつあり,現在では,ヨーロッパ諸国をはじめとして廃止の方向にある。人道上の問題があるだけでなく,その威嚇力にも疑問があり,誤判の場合に回復が不可能だからである。死刑存置国では,その執行方法は,銃殺,電気殺,ガス殺,毒殺,絞殺などのいずれかによっている。日本では,監獄内で絞首して執行される(刑法11条)。
自由刑は,自由の剝奪を内容とする刑罰である。歴史的には,他の刑罰よりもはるかに新しく,近代的自由刑の起源は,16世紀中ごろからヨーロッパ各地に設けられた懲治場の制度に求められるが,その後めざましい改良がなされるとともに,刑罰制度の中心的地位を占めるようになった。日本の現行刑法が規定する自由刑は,懲役,禁錮,拘留の3種類である(9条)。懲役と禁錮は,ともに,無期と有期に分かれ,有期は1ヵ月以上15年以下であり(加重する場合は20年に至ることができ,減軽する場合は1ヵ月未満に下げることができる),監獄に拘置する点も共通である(刑法12~14条)。しかし,懲役は〈所定の作業〉(刑務作業)を行わせるが,禁錮はそうでなく(13条2項),請願により作業(請願作業)につくことができる(監獄法26条)。実際には禁錮受刑者のほとんどが作業についている。禁錮は,概して,政治犯的色彩をもつ犯罪(内乱罪など),あるいは過失犯罪(業務上過失致死傷罪など)について規定されている。拘留は1日以上30日未満で,拘留場に拘置する(刑法16条)。
なお,自由刑の執行は受刑者の人権を保障しつつ,その社会復帰を図ることを目標としてなされなければならない。しかし,それを実現することは実際には容易でなく,とくに短期の自由刑には弊害が大きい。そこで,自由刑の執行をできるだけ避けるために,執行猶予の制度が重要な意味をもっているのである。
財産刑は,財産的利益の剝奪を内容とする刑罰である。日本の現行法では,主刑として罰金と科料が,また,付加刑として没収が認められている(主刑,付加刑については後述)。罰金の額は1万円以上である(減軽する場合には,1万円未満に下げることができる。刑法15条)。科料の額は1000円以上1万円未満である(17条)。ただし,刑法,暴力行為等処罰に関する法律および経済関係罰則の整備に関する法律の罪以外の罪における罰金と科料の額については,罰金等臨時措置法に特別の定めがある。没収は,犯罪に関係のある物について,原所有者の所有権を剝奪して国庫に帰属させることを内容とする財産刑である(刑法19条)。没収は付加刑であって,主刑(独立して言い渡すことができる刑のことである。日本では死刑,懲役,禁錮,罰金,拘留,科料)が言い渡されるときにだけ,それに付加して言い渡すことができる(日本では付加刑は没収のみ)。
財産刑,とくに罰金は,自由刑の執行を避けるために,行政刑法を中心にして,刑罰制度の実際において大きな役割を果たしている。しかし,同額の罰金でも犯人の経済力によって著しくその実際の効果が異なるという問題を含んでいる。そこで,日数罰金(日割罰金ともいう)の制度が,スウェーデン,ノルウェー,デンマーク,ドイツなどで採用されている。これは,犯罪行為の重さに応じて,何日分の罰金という形で決定をしたうえで,犯人の経済状態に応じて1日分の金額を定めて言い渡すのである(たとえば,〈A,B各30日分の罰金に処する。ただし,Aは1日分として5000円,Bは1日分として2500円を納付しなさい〉)。
名誉刑は,人の名誉の剝奪を内容とする刑罰である。現行刑法は,このような刑罰を認めていない。しかし,一定の刑罰に処せられたことの付随的な効果として,権利もしくは資格が停止される場合がある(たとえば選挙権,被選挙権の停止--公職選挙法11条,公務員となる資格の停止--国家公務員法38条等)。これらは,実際には,名誉刑と同様の作用をもっている。
刑の免除とは,有罪の場合に法律上の事由に基づいて刑を科するのを免除することである。刑の免除の事由には,必要的なもの(たとえば内乱予備罪における暴動前の自首(刑法80条))と任意的なもの(たとえば過剰防衛--36条2項,偽証罪における裁判確定前の自首--刑法170条)とがある。刑の免除は,刑罰権は発生している点で,一身的処罰阻却事由と区別される。一身的処罰阻却事由とは,犯罪が成立するにもかかわらず,一身的な事由によって刑罰権の発生が妨げられ,刑罰が加えられない場合をいう(たとえば親族相盗--244条)。
刑罰権は,原則として犯罪の成立によってただちに発生する。ただ,例外として,犯罪が成立していても,刑罰権の発生が他の条件にかかわっている場合がある。この条件を処罰条件という(たとえば詐欺破産罪における破産宣告の確定--破産法374条)。
刑の執行停止は,死刑および自由刑について,次のような場合に認められる。死刑の言渡しを受けた者が心神喪失(強度の統合失調症など)の状態にあるとき,または死刑の言渡しを受けた女子が懐胎しているときは,法務大臣の命令によって執行停止をする(刑事訴訟法479条。心神喪失状態が回復した後または出産の後に法務大臣の命令があるまで停止される)。懲役,禁錮または拘留の言渡しを受けた者が心神喪失の状態にあるときは,検察官の指揮によって,その状態が回復するまで執行を停止する(480条。そのほか482条参照)。
→刑法 →刑法理論 →犯罪
執筆者:内藤 謙
西暦紀元前後から3世紀半ばにかけての日本は,氏族国家分立の時代であった。この時代は法と宗教とが未分離であり,神のいみ嫌う穢(けがれ)が〈つみ〉とされた。当時の〈つみ〉の内容を示すものとして《延喜式》の大祓詞(おおはらいのことば)にみえる〈天津罪(あまつつみ)・国津罪(くにつつみ)〉があり,前者は主として農耕に関する罪であるが,後者には疾病,災害等も罪に数えられている。このような罪の観念に対応して,当時の刑罰は穢を去って神の怒りを鎮めるためのものであり,〈はらひ〉や〈みそぎ〉によって身体を清浄にし,さらに罪重き場合は,その身を追放し,また神の怒りを鎮めるために財物を神に捧げることであった。4,5世紀のころ,大和朝廷が武力と財力によって,しだいに各氏族を統制し,ほぼ日本全土を統一するに及び,法と宗教の分離も進み,世俗的な犯罪と刑罰とが生まれた。6,7世紀のころの日本の刑罰をうかがうものとして,《隋書》倭国伝の記事があるが,それによれば,殺人,強盗,姦には死刑を科し,盗には贓物(ぞうぶつ)の額を計って物を酬(むく)い,その財なきときは身を没して奴とし,その他の罪には,その軽重により流または杖を科しているとある。一方,《日本書紀》によれば,大化以前の罪と罰は,天皇に対する謀反罪が最も重き罪とされ,それには死刑が科される場合が多く,その死刑に財産の没収が付加される場合もあり,また死刑を財産によってあがなう場合もあった。7世紀半ばの大化期にはまだ徒刑は現れていないが,笞杖刑,流刑,死刑や盗犯に対する倍額賠償制等がみえ,それらには,中国律の影響がうかがわれる。
7世紀後半の天武朝初期に,日本に初めて唐律の五刑の刑罰体系が導入され,8世紀初頭の大宝・養老律令の制定に至って,その確立をみた。律の刑罰は,笞罪(ちざい),杖罪(じようざい),徒罪(ずざい),流罪(るざい),死罪の五刑二十等を主刑とし,このほか,加役流,人身の没官,移郷が主刑に準ずるものとしてあり,付加刑としては,贓物の没収,被害者への返還,損害賠償,官人に対しとくに科せられる除名(じよみよう),免官,免所居官等がある。そのほか,犯人の身分等により実刑に代えて他の刑種を執行する留住役,加杖,贖(しよく),官当(かんとう)等があり,さらに僧尼に対する特別な刑として苦使,外配(げはい),還俗(げんぞく)があった。犯罪と刑罰の関係について唐律と比較すると,同一の行為に対する刑罰は,養老律では1等から数等減軽されている場合が多い。9世紀ころから律令制はしだいに変容し,やがて検非違使(けびいし)庁が設置されるや,律の規定を改め,盗犯については,律による笞杖から死刑に至る基本刑を換算して,徒1年から15年までの刑を科し,私鋳銭の罪には終身徒刑に財産刑を併科し,また役年終わるもなお前非を悔いない者に対しては,獄舎に拘禁して終身配役することとした。また当代には赦(恩赦)が乱発されて刑政が弛緩し,とくに仏教思想の影響もあってか,弘仁年間(810-824),死刑の執行が停止され,以後1156年(保元1)にそれが復活するまで約350年間,死刑の執行が行われなかったことが注目される。
執筆者:小林 宏
律令法で刑罰の適用に大きな意味をもったのは犯罪者の官位の有無であったが,中世の武家法では侍身分が重視され,謀書(文書偽造)の罪について,侍は所領没収,凡下(ぼんげ)は火印,また人を殴る罪について,侍は所領没収,郎従以下は召禁(禁錮),また密懐(姦通)の罪について,侍は所領半分没収,名主,百姓は過料(以上,《御成敗式目》および追加法)などと定められた。また,窃盗の罪について,凡下は1回目は火印,3回累(かさ)ねれば死罪とするが,侍は1回でも遠流(おんる)としたごとく,犯罪の性質によっては侍が重刑を科せられたことや,遅くも15世紀には,侍身分に死罪の栄誉刑として切腹が認められたことなど,いずれも侍身分重視の証左である。
中世の刑罰の態様を見ると,その特徴は大よそ以下の3点にまとめることができる。第1は財産法の重視に基づく刑事法規の発達である。一面では,公家法において盗犯の検挙が検非違使の主たる職務と規定され,武家法においても,まず13世紀には夜討,強盗,山賊,海賊が,くだって15世紀には盗み一般が,大犯(だいぼん)三箇条にくりこまれて死罪とされるなど,他人の私財侵奪の罪としての盗罪が,中世の犯罪の中で大きく位置づけられるとともに,他面,武家法において,侍に対しては所領没収や社寺,道路の修理,仏殿の造営を,凡下に対しては過料を科し,公家法においても,贖銅法を拡張適用して私財没収を科するなど,財産刑の盛行を見ることができる。
第2は団体法的刑罰の発達であって,村落などの地縁団体,武士の一族結合などに見られる血縁団体,さらには15世紀以降に発展する大名領での団体的結合(家中)等において,団体内部の闘諍をなるべく小規模に収めることで団体の平和と安全を維持しようとの要請から,仇討(敵討)を親子の間に限り,また第一次の仇討のみを認める法慣習,個人対個人の争いで一方が殺された場合,他方も殺害されるか,相手方に引き渡されるとする下手人の法慣習や喧嘩両成敗法が生まれたこと,犯罪者を団体外,領域外に放逐して,団体の保護の外に置く追放刑が,武家法,本所法で盛行したことなどが注目される。
第3は原始刑罰思想の表出であって,これを律令前の刑罰の再生とみるか,律令制下にも潜在的に生き続けたものの露頭とみるかは,なお確定しがたいとしても,(1)罪を穢(けがれ)とする観念に基づき,穢=禍いを除去する意味をもつ犯罪者の家屋検封や破却,焼却など,(2)死者の霊に対する加罰を意味する,犯罪者の死骸処刑(死骸の磔(はりつけ)や梟首(きようしゆ)),(3)刑罰の目的を,被害者の苦痛の回復とする観念に基づく,博奕者の指とか盗犯の指や手を切るなどの肉刑が,中世の刑事現象の特異な一面を示していることは疑いない。
執筆者:佐藤 進一
中世末~戦国時代にかけて地方政権の相対的弱さと戦時期の緊張から刑罰はきわめて残虐になった。近世に入って織豊時代もこの傾向が続き,かつ全国統制が急がれたから,刑罰は緩和されなかった。江戸幕府の初期も同様で,しかも切支丹信徒迫害のため,〈逆磔(さかさはりつけ)〉〈水磔〉〈牛割(うしざき)〉等の過酷な刑罰が行われた。しかしときとともに幕府の刑罰は残虐さを減じ,将軍徳川吉宗に至って刑罰は大いに改革され,これが《公事方御定書》(1742)に定着した。幕府の刑罰は原則として公刑罰であったが,例外的に私的刑罰権も認められ,切捨御免,敵討,妻敵討(めがたきうち),妻の不義に対する夫の成敗権等が存した。もっとも敵討を除き,他はあまり行われず,幕府も奨励しなかった。しかし被害者の復讐感情は強く顧慮され,結果責任による下手人という刑はその例である。社会の集団的な制裁も失われず,鋸挽(のこぎりびき),放火犯の放火場所引廻し等が行われた。責任は個人にとどまらず,血縁による他人の犯罪に関する連帯責任である縁坐,その他の関係による連坐も認められたが,将軍吉宗以後,縁坐は武士を除き事実上廃止された。また刑罰は死後にも科され,死骸塩詰のうえ,磔や情死者に対する葬儀禁止の刑等があった。刑罰から犯罪の態様が連想される反映刑として放火に対する火罪(火焙(ひあぶり))等があり,応報的要素も見られる。
刑罰の目的は過酷な刑の公開によって一般人を威嚇する〈見懲(みごり)〉,犯罪者の排除,被害者,世人の復讐感情の満足による幕府の威信,秩序の維持という政策的考慮が支配的で,犯罪を悪なるがゆえに罰するという応報観念は比較的弱かった。刑罰は身分によって異なり,庶民に対するものが一般的で,武士,僧侶等には特別の刑があった。庶民に対する刑罰体系は《公事方御定書》以後2種に大別される。(1)は〈通例の御仕置段取(だんどり)〉で基本的なもの,(2)は〈盗賊御仕置段取〉で窃盗罪およびそれに準ずる犯罪に適用される特別刑罰体系であり,累犯処罰の体系であった。
(1)に属するものとして,磔,火罪,獄門,死罪,下手人という死刑に遠島が続き,その下に重追放(おもきついほう),中(なかの)追放,軽(かるき)追放,江戸十里四方追放,江戸払,所払の追放刑が存した。磔には鋸挽,晒(さらし),引廻し,闕所(けつしよ)が付加され,鋸挽のうえ磔が極刑である。その他の死刑や追放刑にも引廻しや闕所が付加されることがあった。これらより軽い刑には種々あるが,手鎖(てじよう),過料,急度叱(きつとしかり),叱がよく用いられた。それ以外にも家内に謹慎させる戸〆(とじめ),非人の身分に編入する非人手下(ひにんてか),女性に対する剃髪(ていはつ),女性に対する労役刑である奴(やつこ)刑,〈新吉原町へ取らせ遣わす〉という隠売女(かくしばいじよ)を吉原に下付して奴女郎にする刑等があった。(2)は入墨刑,敲(たたき)刑によって構成されている。幕府ははじめ耳そぎ,鼻そぎの刑を用いたが,1720年(享保5)将軍吉宗が明律の刺字(しじ)(顔面への入墨),中国法系の笞杖(ちじよう)刑を参照して入墨,敲刑に代え,窃盗罪,博奕罪の刑とした。入墨,敲刑が幕府刑罰中適用頻度が最も高かった。(2)の刑罰体系は敲,重敲,入墨,入墨敲,入墨重敲というもので,初犯敲,再犯入墨,三犯死罪が累犯処罰の体系であった。懲役刑に相当するものは欠如しており,牢屋は原則として未決勾留の施設である。牢屋での禁錮に当たるものとして永牢(ながろう),過怠牢があった。
武士に対する刑罰は主君と家臣との封建的な関係に基づく個人的な懲戒であることが特徴で,死罪,斬罪,切腹,遠島,永預(えいあずけ),追放,改易,扶持(ふち)召放,高召上(たかめしあげ),閉門,逼塞,押込,遠慮,叱等があった。僧侶については,晒,追院,退院,一宗構,一派構等の特別な刑があった。なお寺社,当道の仲間等,身分ないし職業団体にはその長に刑罰権が認められたから,団体内の犯罪については独自の刑罰を行った。当道において溺殺の刑である簀巻(すまき)を執行したのはその例である。また町および村は自治的地域団体として軽い刑罰を行ったが,村の村八分はよく知られている。江戸時代後半期には,人別を削られた無宿が犯罪人口としてあらわれ,幕府はその取締りに苦慮した。その対策として,1778年(安永7)に江戸に無宿養育所を設け,90年(寛政2)には佐渡に送って鉱山で使役する佐州水替(みずがえ)人足の制度が始まった。松平定信執政時代,定信の発議に応じて火付盗賊改長谷川平蔵が具体化した江戸石川島の人足寄場はこの問題に関する幕府の最終的な結論であり,一応の成果を挙げた。はじめは犯罪のおそれのある無宿を収容する保安処分的施設であったが,のちには追放刑に当たる者を執行前に収容することとなり,実際上追放刑を制限する機能を果たした。人足寄場の制度は犯罪者ないしその傾向をもつ者を教化,矯正し,社会に復帰させようという目的が強く打ち出されたものであり,近代的自由刑の誕生として注目される。
→刑具 →裁判
執筆者:平松 義郎
《尚書》などの古典にみえる五刑の記録は,中国春秋時代以前の刑罰の状態をある程度伝えるものと考えられる。五刑とは黥(げい)(また墨(ぼく),顔面への入墨),劓(ぎ)(はなきり),刖(げつ)(また剕(ひ),あしきり),宮(きゆう)(男子は去勢,女子は幽閉),大辟(たいへき)(死刑)であり,生命刑と肉刑と称された身体刑(終身の強制労働をともなう)より成る。死刑の種類は,炮烙(ほうらく),焚(ふん)などの火刑をはじめ,烹(ほう)(かまゆで),車裂(また轘(かん)),支解(しかい)(四肢を断つ),腰斬(ようざん),磔(たく)(はりつけ),梟首(きようしゆ)(さらし首)など過酷なものも多い。棄市(きし)とは市場での公開処刑であり,また夷三族など親族まで死刑に処することもあった。五刑以外の身体刑として,鞭扑(べんぼく)(笞杖)刑もはやくから存在した。しかし前漢文帝の前167年の肉刑廃止宣言にみられるごとく,肉刑は労役刑や笞刑に取って代わられる傾向にあった。鉗城旦舂(こんけんじようたんしよう)(は剃髪,鉗は鉄枷,男子は辺境において築城,女子は米つき,刑期5年),完城旦舂(完は鉗を科さざるの意,刑期4年),鬼薪白粲(きしんはくさん)(男子は祭祀用の薪を伐採,女子は祭祀用の米をえらぶ,刑期3年),司寇(しこう)(盗賊警備の役,刑期2年),罰作(辺境守備,刑期1年以下)などの労役刑が秦・漢代にあり,これらは後世の徒刑につながる。
西晋以後には律と令がその性格上分離し,刑罰は刑法典たる律に規定され,令は民政法典をさすようになった。北魏以来の北朝国家の律では流刑(家族を含む強制移住と強制労働)を加え,隋律,唐律に至って,笞,杖,徒,流,死の五刑が規定され,古代日本の律にも継受された。隋律以来,梟首,轘裂は廃止され,法規のうえでは死刑は絞,斬の2種となった。絞はしめ殺すことであり,身体と首とが離れる斬より軽い。唐律では流刑は二千里役(えき)一年,二千五百里役一年,三千里役一年の3種,徒刑は一年,一年半,二年,二年半,三年の5種,杖刑は六十,七十,八十,九十,一百の5種,笞刑は十,二十,三十,四十,五十の5種であった。笞,杖は刑具たる棒の太さの相違を意味し,杖は笞より太い。腿(もも),臀(しり)を打つもので,杖刑では加えて背をも打った。
唐末五代になると律の権威が動揺してきた。社会や家族のあり方が変化したため,律が現状に適合しにくい場合もでてきた。たとえば専売制など,国家の経済統制への違反は皇帝の直接的立法たる勅によらざるをえなかった。唐律は宋代まで受け継がれながら,勅は律よりも尊重され,編勅や勅令格式という新しい法典が編纂された。また断例という判決例が重視せられ,判例集が編纂されるのも,宋代以後の著しい傾向である。宋初には徒刑と流刑を杖刑に読み替える折杖法(せつじようほう)が行われた。また死一等を減じる場合に,配軍(また配隷,配流),編管という無期刑が用いられるようになった。配軍は廂軍(しようぐん)と称された地方の軍隊に編入するもので,顔面への入墨である刺字と不刺字との別があった。編管とは入墨せずに遠隔地に送り,地方官庁の監督のもとに生活させるものである。死刑には従来の絞,斬のほか,時間をかけて肢体を切りとる凌遅(りようち)なる極刑があり,これは五代,遼でも行われた(凌遅処死)。
元初には金代の法の影響で折杖法が定められ,徒刑,流刑は行われなかった。遊牧のモンゴル人は自由刑の観念に乏しかったためという。しかしこれも杖刑への付加刑として復活し,明代に徒刑,流刑に杖刑を付加することにつながった。元代には絞刑は廃され,死刑は斬,凌遅の2種となった。
明律は唐律に比して内容,体裁を一新したが,刑罰規定のうえでは唐律の五刑を継承した。死刑は絞,斬のほか,謀反,大逆の重罪は凌遅と定められた。充軍は死刑に次ぐ重刑とされ,宋代の配軍に由来する。終身の軍籍編入であり,また子孫に至るまでの編入(永遠充軍)があった。徒刑は塩場(えんじよう)や鉄冶(てつや)に送って一定期間の強制労働を科するもので,流刑は宋代の編管に類するという。清代には充軍は実質的に流刑と異ならないものとなったが,入墨して新疆,黒竜江,吉林など辺境へ送り,強制労働させる発遣(はつけん)が行われた。また枷号(かごう)という昼間に首かせをつけて役所の前にさらす杖刑への付加刑があった。以上のように,唐律型の徒,流のほかに自由刑的要素を増大させたのが宋代以後の刑罰の特徴といえよう。また下級審から上級審に至る審理の詳細な手続,また死刑の判決の場合には多く皇帝の最終的親裁によるべきことを規定したのは,皇帝を頂点とする官僚的行政制度の発達に対応するものであった。
清末には西洋や日本の制度にならって刑務所が設置され,さらに新刑律が制定された。1928年には中華民国刑法典が制定され,自由刑を中心に刑罰体系が整えられた。79年には中華人民共和国刑法が,建国30年にして公布された。
→刑具 →裁判 →律令格式
執筆者:植松 正
古代のアラビアでは,犯罪を一種の汚れた行為とみ,この汚れを清めるのが刑罰だと考えていた。したがって,服刑が清浄化を意味したといえる。イスラム法(シャリーア)では,刑罰をハック・アッラー(神の権利)とハック・アーダミー(人間の権利)とに大別し,神の命にそむいた犯罪に刑罰を科するのは神の権利であり,被害者またはその親族の要求があって刑罰を科するのは人間の権利であるとみなした。イスラム法上,刑罰はキサースqiṣāṣ,ハッドḥadd,タージールta`zīrの三つに大別される。
キサースとは報復の意。イスラム以前には,報復(復讐)も無制限に行われていたが,イスラム時代には,コーランの規定(2:73)に基づいて同害報復に改められた。同害報復の一つは,ある者が他の者を故意かつ不当に殺した場合,加害者を殺す権利が被害者の相続人に与えられる。もう一つは,ある者が他の者に故意かつ不当に傷害を加えた場合,被害者は自分が受けたと同程度の傷害を仕返す権利が与えられる。もっとも,この報復は,加害者が成年者で,十分知能の備わっている者であり,かつ加害者と被害者とが同等の者でなければならない。同害報復を行う代りに,血の代償つまり一種の賠償金の支払をもって償うことも認められている。ある者が故意かつ不当に殺され,被害者の相続人が報復権を放棄すると,重い血の代償を,また,ある者が偶然に殺されると,軽い血の代償を支払わなければならないが,その支払は家畜(ラクダを原則とする)か現金による。しかも支払額は,性別,宗教,身分により異なり,たとえば,女が殺されると男の半額である。また,人を殺すと,報復を受けるか血の代償を支払うほかに,1人の信仰深い奴隷を解放するか,2ヵ月間の断食をしなくてはならない。被傷害者が同害報復の権利を放棄し,血の代償を請求すると,加害者はそれに応じなければならない。傷害に対する血の代償は,傷害の個所により異なる。被害程度は調査され判決が下されるので,それに従わなければならない。
→復讐
ハッドは,法が厳正に定めた刑罰である。これは絶対的であり,加減は許されない。そして,姦通,姦通についての中傷,飲酒,窃盗,追剝の諸罪に適用される。姦通罪(ジナー)には石打ちの刑と鞭打ちの刑とがあり,完全な精神能力をもつ自由人のイスラム教徒で,合法的な婚姻を結んでいる者がこの罪を犯せば石打ちの刑,未婚者であれば鞭打ちの刑に処せられる。中傷罪と飲酒罪には鞭打ちの刑,窃盗罪には手足の交互切断,すなわち初犯は右手,再犯は左足,3犯は左手,4犯は右足が切り落とされる。もっとも,窃盗罪は盗品が一定の価格をもち,適当に保管されていた場合に成立する。犯人が,未成年者,精神病者であれば本刑は科せられない。追剝は,コーランにあるとおり(5:33,38),死刑,はりつけ,手足の交互切断,国外追放の刑に処せられる。窃盗と同時に殺害を行うと死刑に処せられたうえ,死体は一定期間公衆の前にさらされる。
タージールとは懲戒,矯正の意。コーランに明文をもって規定されず,裁判官(カーディー)が諸般の事情から客観的に判断し,最も適当と思われる刑罰に処しうるものである。文書偽造,詐欺,偽証,恐喝などがタージールの対象となる。タージールをどの程度にするかは,裁判官の裁量に任されているので,譴責,財産の没収,追放,投獄,鞭打ちなどの諸刑罰に処しうる。タージールの本来の目的は,矯正することであり,そのため,刑量には個人差があってよいとする。法学者の中には,処罰の対象となる人間を階級や身分によって分ける者や,イスラムに対する態度,生活様式および個人の内面的な価値のほうを,より重視する者がいた。ところが,裁判官の気ままともいえるタージールを賄賂で免れようとした者たちがいた。それで,支配者たちの世俗的立法によって犯罪行為に対して明確な刑罰を決定することで裁判官の自由裁量に任される判決を統制し,調整した。
近代に至り,イスラムの刑罰は,同害報復や身体刑をはじめ,西欧の影響により改革の必要が主張され,1858年のオスマン帝国の刑法典の制定など,ヨーロッパの刑法にならって近代化の傾向をたどった。しかし,1970年代以降,シャリーアの実施をあらためて主張する動きが強く生じると,フドゥード(ハッドの複数形)の施行意義を強調する傾向が注目されるようになった。
→裁判
執筆者:遠峰 四郎
国家法益を侵害する違法行為がある場合に,その行為者に対し国家機関が職権的に捜査,逮捕,訴追ののち裁判を行い,刑罰を確定し,そのうえで国家機関が自身で刑罰を執行するという形態は,ヨーロッパでも長い歴史のうちに作り出されてきたものであって,古い時代には,このような形態は存在しないかないしは希薄である。このために,ここで用いられる刑罰の形態ないし制度も,また,その背後に横たわる観念も,近代とは質的に異なる点があるとともに,民族,国家,地方,時代によりすこぶる多様である。一般的にいえば,国家の中央機関による国内存在諸権力の集中度が未成熟な段階,すなわち権力が分散構造をとる国家社会では,その分散度の強弱に応じてではあるが,成員は自身の生命,身体,財産,自由および名誉の保護を国家機関に期待しえず,自力をもって行う要がある。なぜなら国家機関はまだ力が脆弱であるため違法行為者に対して自発的な訴追行為を行いえず,有効な制裁すなわち刑罰を科しえないからである。
古代ゲルマン社会においては,被害をうけた成員は,自力救済にあたって自身の非力を補うためには,通常は近隣に居住する親族団体(ジッペ)に援助を求める。このため親族団体の結束は固く,違法行為に対する制裁は,国家機関を媒介とせず,被害親族団体による加害親族団体に対する直接的な復讐(フェーデ)の形態をとる。その成否は両者の力の強弱によるとともに,個人の存在は親族団体中に埋没する。このようにして刑罰は復讐の中にまず姿を現し,しかも,復讐行為は完全な適法行為たる性格を持つ。しかし,時とともに比較的早くに一部では,復讐が無制限に広がることを,一つには同害報復すなわちタリオ(同害刑)により,また一つには加害者を委付することにより制限する傾向が生じる。中央権力の多少の成長とともに,裁判が出現しても,復讐制は並存し,しかも,裁判は被害者(原告)による弾劾を原則とすると同時に賠償金主義をとるにすぎない。このために,まだ,裁判の民事と刑事との区別はなく,また,違法行為の不法行為と犯罪とへの分化もない。この裁判は当初は仲裁的性格を強く残し,大権力者には実効性の弱いものにとどまる。しかし,たとえば,ゲルマン古法中では,次の2群の行為は例外的扱いを受ける。すなわち,国家的共同体の存立を脅かす行為と〈不名誉な心情の発露行為〉であって,その行為者は,共同体が保障する平和の剝奪(平和喪失Friedlosigkeit)をもって罰せられて,共同体全成員が殺害義務を負うという総手的処刑の形態(アハトAcht=迫害と呼ばれる)がとられる。このほか,現行犯の場合に限り,特別の手続のもとに即時的殺害が許される。
権力の分散構造の基礎でもある自然経済社会を反映して,刑罰観念は素朴であり,違法行為の効果はつねに行為者の行為自体に結びつけられて内面の意思は法的意味をもたず,結果のみが問題とされる。しかも,行為は自由意思の働きというよりは,悪霊的諸力の定めた運命と見られている。職権による訴追は,ローマではすでに帝政初頭に誕生するが,ゲルマン社会では中世初期末に,王権の強化にともない,それに類するものが芽生えるとともに,わずかながらも意思の要素が考慮されはじめ,また一連の重犯罪とされるものに関しては,諸種の生命刑および身体刑などが国家的刑罰として出現する。しかし,実はこれらの刑罰は買取りも可能であって主権者の財源としての政策的意図とも関連しており,実効性は疑わしい。ただ,10世紀末にフランスのクリュニー修道院を中心に〈神の平和〉運動が起こり,教会を主導者としつつではあるが復讐行為が制限されはじめる。
12世紀のいわゆる〈商業の復活〉以後,商業上の理由からも国内の平和が求められるようになり,ローマ法の復活およびこれを加工したカノン法ないしイタリア法学説の影響(ローマ法の継受)と,ラント平和(ラント平和令)を望む各国各地の主権者の権力集中とのために,漸次にではあるが,親族団体や主従団体を単位とする復讐は世俗立法によって制限を加えられていった。これとともに,官憲による職権的訴追制と合理的な糾問手続とが刑事訴訟手続として確立していき,同時に,一連の違法行為は国家法益を侵すもの,すなわち〈犯罪〉として国家的刑罰の対象となる。かくて,中世後期には峻厳な刑罰が国家的事業として形成されるのであって,これらの刑罰は,いまや現行犯と非現行犯との別を問わず,また自由人と非自由人との身分の別を問わず,等しく適用されるようになった。当時の刑罰は,今日軽罪とされるものにまで生命刑および身体刑が及ぶ点で適用範囲が広いうえに過酷残虐であるが,この背後には,中央機関の力の不十分さからくる焦りと平和への激しい要請とが伏在していたのであり,刑罰の目的としては,応報,威嚇および排害が掲げられていた。
当時の刑罰の種類には,例えばドイツでは次のものがある。死刑としては,絞首または逆吊り,斬首,四つ裂き,生埋め,溺殺,焚殺,釜茹でであり,その加重手段として刑場への馬での曳き摺り,灼熱した火鋏(ひばさみ)での身体引裂きがある。不具刑としては,手,指,耳,舌,鼻の切断,両眼摘出,去勢が,皮髪刑としては,鞭打ち,頭髪切除,烙印が,名誉刑としては,屈辱行進,晒し置き,名誉剝奪が,その他,法的保護の一切の剝奪である法外刑が,または,追放刑(流刑)等が用いられている。すなわち,刑事裁判の対象となり〈刑事刑〉を科せられるべき犯罪と,民事裁判の対象にすぎない不法行為とが分化する。しかし,他方において,抑止のきいたカノン法の刑事訴訟手続の精神からの漸次の逸脱と,中央権力による統制の弱さとのために,治安の維持に狂奔する裁判官らの恣意性は急速に増大し,適用される刑罰もまた不明瞭で不安定なものとなっていく。この欠陥は,精密なイタリア法学の知識が流入するに従い,大きく露呈されることになる。
フランスでは,復讐がほとんど根絶された近世の絶対王政期に入ると,徐々にではあるが,刑事訴訟の面では王令による規制が強化されていくものの,一般の刑罰規定はまったく欠如していた。こうして,刑罰規定が刑法として確立していないことと,そのために裁判官が恣意的に裁判を行うという状態はフランス革命まで存続する。また国内平和の増大するこの時期には,刑罰の残虐性が相対的に目だつようになり,その結果,啓蒙主義からの批判が生じ,やがて,罪刑法定主義が生まれるゆえんとなる。
ドイツでは,15世紀末に復讐は違法とされるとともに,フランスと異なり,民衆の苦情から1532年に帝国の統一刑事法典たるカロリーナ刑事法典が成立し,従来のドイツ刑事法は,ローマ法とくにイタリア法学説に照らして検討されて,法的安定性の欠如と恣意の支配とが排せられ,調和ある原理と体系が生まれるに至る。すなわち,賠償金での和解が万能な民事刑と区別される刑事刑の,とくに死刑の適用範囲が明確にされ,犯人の責任とともに意思が考慮されて,結果責任主義は一掃され,また,未遂および共犯に関する原則が立てられて,古法の不揃いと未熟さが克服される。同時に,このための刑事訴訟法も整備されている。しかし,18世紀前半までの間に,各地方では漸次これからの逸脱が生じ,とくに死刑の適用範囲の拡大と恣意的科刑が再現し,絶対王政のもとでそれは顕著になる。しかし他方,この時期に初めて教育刑思想ないし近代的自由刑が一部で誕生する。18世紀後半には啓蒙主義の影響によって中世的刑罰は衰退し,罪刑法定主義が宣明され,また自由刑が優位を占めはじめる。イギリスでは早くも12世紀後半に公的訴追制が確立するが,刑罰制度は大陸法と違ってこの国特有の変遷をたどる。
→刑具 →裁判 →復讐
執筆者:塙 浩
現代社会では,刑罰は狭義に〈国家が犯罪者に科する法律上の処罰〉とされ,近代において唯一の正統的公権力として社会の刑罰権を独占する国家が,人民の権利保障のために法律的手続に従って科するものである。だが歴史的には,古代帝国はもとより中世の教会,封建領邦,ギルドなどの例におけるように,厳密な法律的手続によらない処罰,あるいは公権力を分有していた諸社会組織による処罰もあったから,広義には〈社会の諸公権力が犯罪者に科する処罰〉を意味する。さらに人類文化全体でみると,過去の原始社会,あるいは現代における部族社会またある種の軍事的組織などのように,公権力が十分に確立または浸透していない社会においても,犯罪的行為に対する刑罰的な処罰はあるから,最広義では,〈犯罪的行為に対する社会的処罰〉すべてを指して用いられる。この意味の刑罰には,一見個人あるいは私的集団が制裁を科すように見えるものもあるが,社会一般の承認ないし支持のもとに特定の個人または集団により科刑されるのであって,その意味で公的な性質を持つ。ただし一般に公・私の区別はもちろん,宗教的,道徳的,社会的分化も十分にはなされていない。
アフリカの部族社会には公的な政治組織や裁判制度を発達させたものもあったが,その刑罰も近代的な公刑罰とは異なる。いわゆる未開社会における神聖冒瀆,邪術,近親相姦などの犯罪に対しては,社会秩序を乱すものとして,社会全体の行動により加害者に死刑,追放などの刑罰が科されるが,これは本来犯罪行為によって社会に生じたけがれを清め,けがれの原因者を排除する贖罪の宗教的儀,とくに社会に不可欠な家畜の盗み,姦通などの犯罪に対する処罰は,もともとは被害者が,ときにはその親族が,連帯して加害者側に対して実力行動によって加えたものであった。この形は今日の公刑罰にはほど遠いように見えるが,もちろん単なる私怨による行動ではなく,報復,復讐,戦争その他どう名づけられようとも,社会の承認のもとに被害者側が加害者側に対し権利として行う自救制度なのである。だが自救行為が無限定にくり返されては,当事者間に宿怨ないし〈血の復讐〉の関係が発生しやすいので,これを抑止するために報復行為を一度にとどめ,かつその損害の程度をうけた被害と同程度にするという制限が一般化した。これが〈目には目を,歯には歯を〉といわれるタリオの原則である。しかし実力行使によっては損害が避けられないので,これを回避するため,自救行為は儀礼の形で象徴的に行うにとどめ,同時に加害者側が被害者側に贖罪のしるしとして金品を供与するようになり,損害賠償制度が成立するに至った。他方,社会を代表する正統的権力の担い手が政治的支配者として確立されるにつれて,この権威と権力者を守るために刑罰制度が整備されていき,損害賠償制度と性質上の区別がなされるようになった。現代の公刑罰はその発展の結果である。
上記の意味の刑罰に見られるその他の特徴を一般的にいうと,まず刑罰の形態としては,身体に対するものでは死刑,追放が主で殴打,笞刑,身体損傷等はあるが懲役,禁錮はほとんどない。心理・名誉に対するものとしては嘲笑,非難,侮辱などが広く見られて効果も大きく,経済的財貨に対しては財産の没収,破壊や交換の拒否はあるが罰金は少ない。次に科刑の手続には,今日のような厳密な罪刑法定主義は行われないが,利益を公平に守り,権利と義務のバランスを保ち,定まっている法原則を適用するなどの精神は広範に浸透している。そして刑罰の目的は処罰そのことよりも,むしろ当該社会の混乱した秩序の回復,ひいては当事者間の平和的関係の修復にあり,一方で死刑や追放などの極刑が多用されながら,他方では賠償金で首を買いとる例や,追放後も無事帰還すると社会への復帰が許される例などが広くみられるのも,このことを示している。
→サンクション →法人類学
執筆者:千葉 正士
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
犯罪を犯した者に科せられる法律上の制裁をいう。現在では、ほとんどすべての国が刑罰権を独占的に国家の手に収めているので、そこでは、刑罰は、国家が犯罪に対する法効果として私人に科すところの利益の剥奪(はくだつ)を意味することになる。
日本の刑法では、刑罰ということばを用いず、刑という名称を用いている。刑というのは、法律のなかに種類を特定して存在し、あるいは特定の行為者に対して言い渡され、あるいは執行されるところの個々具体的な刑罰である。刑の変更、刑の量定、刑の執行、刑の消滅など、刑法が取り扱うのは、すべてそのような形をとった刑にほかならない。これに対して刑罰というのは、抽象的な観念に付せられた名称である。窃盗・殺人といった個々の犯罪ではなく、犯罪という一般的な観念に対応するのは刑ではなく刑罰であり、また民事法上の法効果である損害賠償や、行政法上の法効果である行政罰と並ぶのも、刑ではなく刑罰である。このように、刑というのは、刑罰の発現形態に対して付された名称であるといってよい。
[西原春夫]
刑罰は、それによって奪われる利益の種類によって、生命刑・身体刑・自由刑・名誉刑・財産刑に分かれる。日本の現行刑法は、身体刑・名誉刑を認めず、生命刑としての死刑、自由刑としての懲役・禁錮(きんこ)・拘留、財産刑としての罰金・科料・没収を認めるにすぎない。そして、この死刑・懲役・禁錮・罰金・拘留・科料を主刑とし、没収を付加刑とする(9条)。主刑というのは、独立して言い渡すことのできる刑罰であり、付加刑というのは、他の刑罰に付加してだけ言い渡すことのできる刑罰である。
(1)死刑 現行法上、死刑は内乱罪・放火罪・殺人罪・強盗殺人罪など14種の重大な犯罪に対する刑として規定されている。死刑の執行方法としては、現在世界各国で、絞首・断首・銃殺・ガス殺・電気殺などの方法が用いられているが、日本は第二次世界大戦終了前の軍刑法による死刑を除き、明治以来一貫して絞首刑の方法を用いてきた。死刑の執行は、制度上は特定の場合を除き判決確定の日から6か月以内になされる法務大臣の命令によって行われることになっている。
(2)懲役 自由刑の一種であって、刑事施設に拘置し所定の作業を行わせることを内容とする。無期と有期とに分かれ、有期懲役は1月以上20年以下である。
(3)禁錮 自由刑の一種であり、刑事施設に拘置することをその内容とするが、懲役と異なり、強制的に作業を行わせることはない。もっとも、受刑者の請願によって作業に従事させることはできる。現行刑法上、禁錮は内乱罪・騒乱罪などの政治犯と、業務上過失致死罪・業務上失火罪などの過失犯の一部に対する刑種として考えられている。懲役と同じく無期と有期とに分かれ、有期禁錮は1月以上20年以下である。
(4)罰金 財産刑の一種であって、懲役とともに非常に多くの犯罪に対する法効果として多用されている。罰金の額は、それぞれの犯罪ごとに上限あるいは下限を定められているが、その最下限は1万円とされている。罰金を完納することができない者は、1日以上2年以下の期間、労役場に留置することとなっている。
(5)拘留 自由刑の一種であり、科料とともに非常に軽い犯罪に対する刑種とされている。その期間は1日以上30日未満であり、その内容は刑事施設に拘置することである。
(6)科料 財産刑の一種で、拘留と並び、非常に軽い犯罪に対する刑種とされている。現行刑法上、その額は1000円以上1万円未満である。科料を完納することができない者は、1日以上30日以下の期間、労役場に留置することになっている。
(7)没収 付加刑であるから、独立して言い渡すことはできない。他の刑罰とあわせてだけ言い渡すことができる。没収の対象となるのは、偽造文書行使罪における偽造文書のように犯罪行為を組成した物、傷害罪における凶器のように犯罪行為に供しまたは供しようとした物、偽造通貨とか盗品、犯行の報酬のように犯罪行為から生じもしくはこれにより得た物、またはその対価として得た物である。もっとも、裁判所が以上の物を没収しうるのは、それが犯人以外の者に属さないときに限る。ただ、犯人以外の者が犯罪ののちに事情を知ってその物を取得したときは、犯人以外の者に属する場合でも、これを没収することができるものとされている。
[西原春夫]
刑罰の歴史は人間の歴史とともに始まる。元来、人間はその自己保存の本能から集団で生活する習性をもっており、しかもこの集団の生活、社会生活には規範というものがかならず必要になり、そして規範のあるところには、通常、それに違反した場合に科せられる、一定の利益剥奪を内容とする制裁が存在することになるからである。規範違反に対する反作用としての利益剥奪は、それがどのような形式であろうとも一種の刑罰としてとらえることができるのだから、刑罰は人間が社会生活を始めるとともに発生し、その変遷に従って変容を遂げていくものであるといってよい。現に、世界各国における刑罰の進化は、各民族の特殊性を反映しながらも、ほぼ共通した過程をたどって今日に至っている。
[西原春夫]
西洋における刑罰の原始的形態をもっともよく物語るのは、ゲルマン古代における刑罰制度である。ゲルマン民族は、ジッペSippe(ドイツ語)と称する血縁共同体(氏族)を単位として歴史のなかに登場してくるが、刑罰制度もまた、このジッペを単位とするものであった。すなわち、ゲルマン古代の刑法は、対内的刑法、対外的刑法、共通的刑法の三つの種類に分かれていたが、いずれもジッペを単位とするものであった。
第一の対内的刑法は、ジッペ内部における各家の家長の懲戒権を基礎づけるものであり、相手が自由民の場合には鞭(むち)打ち、ジッペ外への追放などがよく行われ、相手が奴隷の場合には打撲・束縛、場合によっては殺害が行われた。
第二の対外的刑法は、ジッペ対ジッペの関係を規律する刑法であって、あるジッペの構成員が他のジッペの構成員に対し犯罪を行った場合には、被害者またはその叫び声を聞いた者は、現行犯人を殺害する権利・義務をもち、犯行が一夜を越えて発見されたときは、被害者の属するジッペと加害者の属するジッペとの間にフェーデFehdeと称する敵対関係が生じ、前者の構成員は後者の構成員に対して復讐(ふくしゅう)(血讐)をなす権利・義務をもったのであった。ここにもまた、公刑罰の原始的形態を認めることができよう。もっとも、このような復讐の公認は、ジッペ間の戦闘状態を招来し、人民の平和を害することが甚だしかったので、後の時代には、犯人が避難所に隠れて和解交渉の機会を待ち、また贖罪(しょくざい)金を支払って復讐を免れることができるようになった。
第三の共通的刑法は、人民全体に対する反逆を禁止したもので、寺院の略奪、死体の略奪、加害呪術(じゅじゅつ)などの宗教上の犯罪や君主・国家に対する反逆、軍隊からの逃亡、それに夜間の重窃盗、強姦(ごうかん)、境界侵犯などの破廉恥罪などが行われた場合には、平和喪失Friedlosigkeitと称する法効果が与えられ、犯人はジッペから放逐されることはもとより、すべての法的関係を解消させられ、誰(だれ)がこれを殺害してもよいとされた。もっとも、後の時代には、この種の犯罪者に対しては民会の構成員全員が共同して刑を執行するようになり、また刑の種類も犯罪ごとに類型化して、窃盗は絞首、秘密殺人は車刑、強姦は斬首(ざんしゅ)、風俗犯は沼地への生埋めなどと定められるようになった。
フランク帝国時代に至ると、しだいに国家的な刑罰体系が発達し、家長の懲戒も、氏族間の復讐やそれにかわる贖罪金支払いも、また平和喪失刑も、そのなかに包括され始めた。それに伴って刑罰の種類も多様化し、絞首・斬首・溺殺(できさつ)刑、埋没刑、火刑、車裂き刑、馬による引裂き・引きずり殺し刑などの生命刑のほかに、種々の身体刑が現れるようになった。身体の部分の切断、笞刑(ちけい)、剃髪(ていはつ)、焼印などの刑罰がこれである。そして、その多くは反映刑であって、偽誓者に対しては宣誓に用いた手を切断し、神を冒涜(ぼうとく)した者はその舌を引き抜き、姦通した男は去勢し、通貨偽造者の額には烙印(らくいん)を押すというようなことが行われた。贖罪金も、最初は被害者やその属する氏族に支払われていたが、やがて国家と折半ということになり、後期には国家に帰属する部分がずっと多くなって、罰金刑化した。このようにして復讐はしだいに減り、わずかに殺人・姦通・婦女略奪の場合にだけ許されるようになった。
ヨーロッパ中世の刑法は、主として各地方慣習法として発達したが、刑罰制度の特色は、前述のような生命刑・身体刑がその中心となり、罰金などの財産刑は影を潜め、そのかわりに晒(さらし)・引回しなどの名誉刑が登場するようになった。
近世初頭においても、残虐な生命刑・身体刑は依然として存続した。1532年に制定されたドイツのカロリナ法典は、刑事裁判制度という点で当時のヨーロッパでは卓越したものをもっていたが、その刑罰制度は依然、峻烈(しゅんれつ)・残酷なものであった。窃盗に対する絞首、強盗に対する断首、国事犯に対する四つ裂き、乱倫行為に対する串(くし)刺し、魔女に対する火刑、親殺し・夫殺しに対する車びきなどの死刑や、官の権威を侮辱した者に対する目をくりぬく刑、窃盗に対する耳をそぎ落とす刑、神を侮辱した者に対する舌を切る刑、軽罪に対する指を切り落とす刑などの身体刑が認められていた。カロリナ法典の刑罰組織は、中世における残虐な刑罰の総目録であり、しかも、それは近世初頭の絶対主義時代を通じて、他の地方法に絶大な影響を及ぼしたのであった。これらの時代に使われた刑罰道具、拷問道具の完備した収集・展示場としては、ドイツのローテンブルク市にある刑事博物館が名高い。
しかし、その間にもすでに近代的な刑罰制度への欲求は萌(も)え出ていた。17世紀初頭におけるアムステルダムの懲治場は、近代的な自由刑制度誕生の地として名高い。しかし、このような近代的・合理的刑罰制度が陰惨・残酷な中世以来の刑罰制度を駆逐するためには、18世紀における啓蒙(けいもう)思想や、その影響を受けた刑事立法をまたなければならなかった。とくに1810年のフランス刑法は、進歩的な刑罰制度を携えて、諸国の刑事立法を指導したのであった。
[西原春夫]
多くの古代社会がそうであるように、日本の上代でも、法と宗教とが未分離の状態にあった。したがって、犯罪すなわち「つみ」の概念は、かならずしも規範に違反する行為だけから成り立っているのではなく、疾病や天災など、個人の責任に帰すことのできない事実をも含むものであった。すなわち、「つみ」を構成する第一の類型は、畔放(あはなち)・溝埋(みぞうめ)・樋放(ひはなち)・頻蒔(しきまき)(播種(はしゅ)した田畑にさらに播種して妨害する)・串刺し(他人の田に棒を刺す)などの農耕に関する秩序違反の行為であり、第二類型は、生剥(いきはぎ)(生獣の皮を剥ぐ)・逆剥(さかはぎ)(生獣の皮を尻(しり)のほうから剥ぐ)・屎戸(くそべ)などの人命殺傷に関係する不浄な行為(呪術行為)である。そして、以上は天津罪(あまつつみ)とされた。これに対して、第三類型以下は国津罪(くにつつみ)とされており、第三類型には生膚断(いきはだだち)、死膚断などの不浄な行為、第四類型には白人(しろひと)、胡久美(こくみ)などの疾病、第五類型には己(おの)が母犯せる罪、己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、畜(けもの)犯せる罪などの性的な秩序違反行為、第六類型には昆蟲(はうむし)の災い(蛇にかまれるなど)、高津神(たかつかみ)の災い(落雷)、畜仆(けものたお)しなどの偶然の災厄、第七類型には蠱物(まじもの)せる罪などの呪咀(じゅそ)的行為が属していた。以上の各類型はそれぞれかなり性格を異にするけれども、上代社会においては、それらはいずれも神の忌み嫌うことと考えられたようであり、その点で「つみ」としての共通性をもつものとされたようである。「つみ」の観念がそのようなものであれば、これに対応する効果も当然宗教的な性格をもつことになるのであって、それにあたる「はらい」(祓)、「みそぎ」(禊)などは、いずれも「つみ」によって生じた不浄を除去するための手段と考えられたのであった。この「はらい」「みそぎ」を日本における刑罰の原始形態と考えるのが通説である。他の多くの古代社会では、刑罰の原始形態をなしたのは復讐(ふくしゅう)であったが、日本ではそのことを伝える資料が存在しない。
しかし、上代も後期に至って鉄器の生産が進み、また中国から儒教が伝来し始めると、それにつれて従来のような原始的な宗教感情が失われ、「つみ」のなかで、人の行為に由来するものと、その他のものとが分化するようになり、人の行為に由来する「つみ」に対して、従来の「はらい」「みそぎ」以外の刑罰が科せられるようになった。この時代の刑罰には、死(し)・流(る)・追放・貶姓(へんせい)・黥(げい)・没収などがあるが、そのほか膝(ひざ)の筋を断つ身体刑なども行われたと伝えられる。死刑の執行方法は、絞首・斬首・焚刑(ふんけい)であり、重大な犯罪の場合には、妻子を没し、門戸および宗族を滅するなどの縁坐(えんざ)も行われたようである。
一般に、603年(推古天皇11)から967年(康保4)までの364年間を上世とよぶが、この時代には中国からの文物の到来が著しく、とくに大化改新(645)以降唐に倣った中央集権的国家体制が確立し、法律の分野では、大宝律令(たいほうりつりょう)(701)・養老律令(ようろうりつりょう)(718)を中心とする完備した成文法の時代を迎えることとなった。律令時代の刑罰は、唐律に倣って笞(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)の5種(五罪=五刑)であるが、上代以来の日本の伝統に従い刑の字は用いず、笞罪・杖罪というように、それぞれ罪の字を付していたことに注意を要する。当時の日本には、現在の刑罰に相応する用語は存在せず、犯罪と刑罰との対応関係も明らかでなく、両者は未分化で、刑種は罪種を示すものにほかならなかった。笞は細い木の枝、杖は太い木の枝で臀部(でんぶ)を殴打する刑であり、笞には10から50、杖には60から100に至る5等があった。徒は労役刑であって、期間は1年から3年。流(流刑)は辺地に流して終身帰らせないものであり、京からの距離によって、遠流(おんる)・中流・近流の3種があった。死は斬首と絞首に分かれていた。なお、以上の五刑のほかに、付加刑として没官と移郷(いごう)、換刑として加杖(徒のかわり)と留住(りゅうじゅう)役(流のかわりに徒刑を科す)とがあり、また有位者および僧侶(そうりょ)に対する閏(じゅん)刑(身分者に対する特別な刑)が認められていた。
以上のような律令時代の刑罰制度は、上代の後期に至っても維持されたが、その運用には変化をきたした。律令を修正する格式(きゃくしき)が多数発布され、また検非違使(けびいし)庁の先例がいわゆる庁例として重んじられ、場合によっては律令に相反することすら認められるようになったのがこれである。また当時は仏教の影響などから刑を軽くする傾向が生まれ、とくに811年(弘仁2)以降、死刑の判決があっても朝廷が別勅をもって一等を減じ、遠流に処するという慣例が生じ、1156年(保元1)までの実に345年の間、死刑の執行が行われなかったことは注目に値する。
律令時代の公地公民制は上代末期にすでに衰退を始め、これにかわって荘園(しょうえん)の制度が発達してきた。荘園的封建社会はそのなかから武士階級を生み出し、それが勢力を得て、鎌倉幕府の成立とともに武家法が全国に現れることとなった。鎌倉幕府は律令時代の笞・杖・徒・流・死のうち、死刑のなかの斬首と流刑のなかの遠流だけを承継し、それ以外の刑はすべて廃絶してしまった。そして、それに加えるに、所領の没収などの財産刑、永不召仕(ながくめしつかわず)・止出仕(しゅっしをとどむ)・勘当などの武士に対する名誉刑、指切・火印捺(かいんなつ)(額に印を押す)・片鬢剃(かたびんそり)などの庶民に対する身体刑などを採用したため、刑罰制度は前時代に比べると著しく残酷なものとなった。これは、当時の武断的なイデオロギーの発現であり、したがって、その後の室町時代もほぼ同様な形で経過したのである。戦国時代には、刑罰制度は各地方でやや異なった発達をみたが、一般に当時の風潮を反映して過酷・残虐なものであった。磔(はりつけ)・逆さ磔・串刺(くしざし)・鋸挽(のこぎりびき)・牛裂(うしざき)・車裂(くるまざき)・火焙(ひあぶり)・釜煎(かまいり)・簀巻(すまき)など、死刑の残酷な執行方法が行われ、また指切・手切・鼻そぎ・耳そぎのような非人道的な身体刑も多用された。日本刑罰史上の暗黒時代ということができる。
江戸幕府成立後も、当分の間はこのような過酷な刑罰制度が維持されたが、中期以降はしだいに緩和され、とくに8代将軍吉宗(よしむね)によって刑罰制度に大改革が加えられてからは、あまりにも多様だった刑種がかなり整理されることとなった。生命刑としては鋸挽・磔・獄門・火罪・斬罪(武士)・死罪(死屍(しし)は様斬(ためしぎり)にされ、家屋敷・家財は没収)・下手人(げしゅにん)(利欲にかかわらない殺人にだけ科す斬首刑)などの執行方法が認められ、身体刑としては入墨(いれずみ)・敲(たたき)などがあり、自由刑としては入牢(じゅろう)・遠流・追放・閉門・逼塞(ひっそく)・遠慮(えんりょ)・戸〆(とじめ)・手錠(てじょう)・押込(おしこめ)・預(あずけ)などの種類があり、財産刑としては闕所(けっしょ)・過料などがあった。また、名誉刑としては役儀取上・叱(しかり)・隠居などが認められていた。ところで、当時、これらの刑種のうち追放が非常に多用されたが、追放された者が無宿となって犯罪を重ねることが多く、治安維持の観点から不都合をきたしたので、1790年(寛政2)には江戸佃島(つくだじま)(東京都中央区)に人足寄場(よせば)が設けられ、無宿者を集めて、これに生業を与え、更生させる試みがなされた。日本における近代的自由刑の萌芽(ほうが)として著名である。
明治維新後最初に制定された仮刑律は、律令制を模して笞・徒・流・死の4種の刑罰を認め、ついで制定された新律綱領も、律令の基礎のうえにたっていたから、笞・杖・徒・流・死の五刑をすべて復活したが、やや西欧法の影響を受けた改定律例(りつれい)は笞・杖を原則として廃止し、これにかえて懲役をもってすることとなった。フランス刑法を模した旧刑法は、非常に多様な自由刑の種類を認めたため、刑名は多数に上り、死刑、無期・有期徒刑、無期・有期流刑、重・軽懲役、重・軽禁獄(以上、重罪の主刑)、重・軽禁錮、罰金(以上軽罪の主刑)、拘留、科料(以上違警罪の主刑)、および剥奪(はくだつ)公権、停止公権、監視、罰金、没収という付加刑がこれに数えられることとなった。現行刑法は、自由刑の種類をはるかに制限し、また剥奪公権・停止公権という名誉刑を廃止し、前述のような7種のものだけに限定したのであった。
[西原春夫]
刑罰の本質については争いがある。刑罰は犯罪という害悪に対し反作用として科せられる害悪だとする見解を応報刑論といい、これに反して、刑罰は将来における犯罪を防止し、もって社会を防衛するところの合目的的な手段だと解する見解を目的刑論という。
応報刑論は、人間は生まれながらにして平等に理性を授けられ、その理性に従って行動することのできるものだとする啓蒙主義的人間観に由来し、刑罰は単にそのような理性人が犯罪を犯したという理由だけによって科せられ、他のいかなる目的をも追及するものでないとする、いわゆる絶対的応報刑論から出発したのであった。しかし、19世紀に入って、しだいに自然科学が発達するにつれ、応報刑論の基礎にある啓蒙主義的人間観が批判されるようになり、むしろ、人間の行動は素質と環境によって制約されているとする自然科学的な人間観が台頭するに至った。
目的刑論は、まさにそのような人間観に立脚して、当時強く唱えられたのである。このような目的刑論のうち、刑罰は犯人を教育し、社会に復帰させる手段だと解する立場を教育刑論という。しかし、20世紀に入って、ふたたび人間の理性を尊重し、その自由意思による決断を重視する人間観がその地位を回復するにつれ、応報刑論が姿を変えて強調され、現在ではこれが支配的な見解ということができるようになった。現代における応報刑論は、刑罰の本質を応報としてとらえながら、その応報を客観的に行われた違法行為への応報ではなく、素質・環境などの行為者の個人的事情を考慮に入れた、いわば規範的な応報と解すると同時に、他方、応報の効果として、あるいはその限度内において刑罰が犯罪の予防あるいは社会保全の機能を営むことを是認する、いわば相対的応報刑論を展開するに至っている。
[西原春夫]
前述のように、刑罰がその本質において規範的応報であり、その内容において害悪であるといっても、そのようなものとしての刑罰が、社会生活の現実のなかで本質を超える機能を営み、人間に対して善の働きをなすことを否定するものではない。刑罰には、大別して、予告的、応報的、保安的、予防的の四つの機能を認めることができる。
(1)予告的機能 まず、刑罰は法典のなかに位置しているとき、どのような行為に対して刑罰が科されるかということ、および、どのような犯罪に対してどのような刑罰が科されるかということを、一般人および司法関係者に予告するという機能を営む。
(2)応報的機能 刑罰が裁判所によって言い渡されたり、あるいはさらに進んで現実に執行される段階に至ると、刑罰は応報的機能を営み始める。すなわち、被害者またはその遺族、さらには社会一般の応報感情を和らげ、満足させるという機能を営むのである。国家が刑罰権を独占し、私的な復讐を禁止している以上、そして人間に復讐心が消滅しない以上、刑罰はこのような機能を営まざるをえない。そして、この応報的機能を受刑者の立場からみれば、そこに、刑を受けることによって罪を償う贖罪(しょくざい)的機能をみいだすことができる。
(3)保安的機能 執行されつつある刑罰を社会一般との関係でとらえてみると、そこに、刑罰が社会保全の作用を営んでいるのをみいだすことができる。もっとも、刑罰のこの機能は財産刑にはほとんど存せず、また生命刑・自由刑も保安の必要がなくとも科さなければならない場合があるのだから、刑罰のこの機能はかならずしも刑罰一般に共通する機能とはいえない。
(4)予防的機能 刑罰の予防的機能は、さらに一般予防的機能と特別予防的機能とに分かれる。一般予防的機能は、一般人に働きかけ、これを威嚇することによって犯罪を防止するという機能であるから、刑が法典のなかに記載されている段階でも、裁判所によって言い渡された段階でも、またこれが現実に執行された段階でも、つねに営まれる可能性のある機能である。これに対して、特別予防的機能は、犯人自身に働きかけ、新たな犯罪を犯させないようにする機能であるから、少なくとも刑罰言渡しの段階に達して初めて発動するものであり、刑罰執行の段階に至って十全な活躍をなすものである。すなわち、すべての種類の刑罰は、理性ある人間に対しその行為の反規範的・反社会倫理的意味を感銘させ、将来ふたたび犯罪を犯さないよう戒告するという機能を営む。とくに、自由刑は一定期間継続して執行されるものであるだけに、受刑者の内面に直接働きかけ、心理学的・社会学的な方法を用いて犯罪の特別予防に奉仕しうる余地がきわめて大きい。
[西原春夫]
特定の行為者に対し刑罰を言い渡すことを刑の適用という。刑の適用は、現在ではもっぱら裁判所にゆだねられており、これには例外がない。刑の適用についてもっとも問題となるのは、刑種と刑量の決定である。刑は、各個々の条文のなかに一定の幅をもって規定されているのが普通である。このように、各個々の犯罪に対応して各条文のなかに記載されている刑を「法定刑」という。たとえば殺人罪の法定刑は「死刑又は無期若しくは五年以上の懲役」(刑法199条)である。刑の適用にあたってまず第一に標準となるのは、この法定刑にほかならない。次に、刑の適用にあたっては、法定刑に対して加重・減軽を施すことが必要である。どのような場合に刑を加重しまた減軽するかは、刑法総則に規定がある。これを法律上の加重・減軽事由という。なお、法律上の減軽事由がなくとも、個々の犯罪ごとに犯情を考慮して刑を減軽することは可能である。これを酌量減軽という。加重・減軽の仕方については一定のルールがあるが(同法66条~72条)、このようにして法定刑に加重・減軽を施して得られた刑を「処断刑」という。処断刑には、法定刑に一定の幅があるのに相応して、やはり一定の幅があるのが普通である。裁判官は、このような処断刑の範囲内で個々の犯罪に相応した一定量の刑を選び出し、これを言い渡すのであるが、このように言い渡されるべき刑を「宣告刑」という。宣告刑の決定にあっては、違法行為の大小だけでなく、犯人の年齢・性格・経歴・環境、犯罪の動機・方法・結果・社会的影響、ならびに犯罪後における犯人の態度を考慮し、犯罪の抑制および犯人の改善更正に役だつよう意図すべきものとされている。
[西原春夫]
刑の執行とは、判決により特定の行為者に対して言い渡された刑の内容を実現することをいう。それは、裁判が確定したのちただちに行われるのが原則である。ただし、死刑の執行についてはさらに法務大臣の命令のあることが必要である。また、懲役・禁錮・罰金の執行については、これにあわせて執行猶予の言渡しのあったときは、その取消しの裁判が確定するまでこれを執行することができない。刑の執行は、原則として、その裁判をした裁判所に対応する検察庁の検察官の指揮により、刑罰の種類いかんに従って、行刑官または執行官がこれにあたる。
[西原春夫]
刑の消滅とは、適法に公訴が提起され、有罪の確定判決があったのちに、その刑罰執行権が消滅することをいう。刑の消滅事由には、犯人の死亡または犯人である法人の消滅、恩赦、時効、刑の執行猶予期間および仮釈放期間の満了の四つがある。
[西原春夫]
ここにいう時効は、刑の時効を意味する。刑の時効と似ているが異なるものに公訴時効がある。公訴時効は刑事訴訟法上の制度であって(250条以下)、まだ刑の言渡しの確定しない者、たとえば犯行後逃亡して起訴を免れている者とか、起訴されたが公判審理中に逃亡して有罪判決を受けていない者についての時効であって、一定期間の経過によって公訴権を消滅させ、ひいては刑罰請求権を実現不能にするものである。これに対して、刑の時効は、確定判決を受けた者、たとえば罰金の判決の言渡しを受けそれが確定したが、その後逃亡して罰金の支払いを怠っている者などについての時効であって、一定期間の経過により刑罰執行権を消滅させる。したがって刑の時効が完成したときは、刑の執行の免除が行われることになる。このように刑事法上時効が認められる理由としては、被害者や一般社会の応報感情は時とともに衰退し、時の経過によって犯人に対する非難が緩和する点、あるいは時の経過により犯罪の立証が困難になる点などがあげられている。もっとも、20世紀の末ごろから被害者や遺族の応報感情に対する社会一般の共感が強まるにつれて、とくに時効期間の短い公訴時効(たとえば死刑にあたる罪については25年、長期10年未満の懲役または禁錮にあたる罪については5年)に関し時効廃止論が優勢になり、2010年(平成22)刑事訴訟法が改正されるに至った。これにより、人を死亡させた罪に関して、無期の懲役または禁錮にあたるものの公訴時効は30年、長期20年の懲役または禁錮にあたるものは20年、それ以外の懲役または禁錮にあたるものは10年となり、死刑にあたるものは公訴時効の対象から除外された。
同時に刑法の改正も行われ、死刑の時効は廃止(刑法31条)、そのほかの刑の時効の期間は、無期の懲役または禁錮は30年、有期の懲役または禁錮は、10年以上は20年、3年以上は10年、3年未満は5年、罰金は3年、拘留・科料・没収は1年となった(同法32条)。
[西原春夫]
文字のない社会で、公的に組織された機関によって加害者に対して加えられる制裁が文明社会での刑罰にあたる。文字のない社会での刑罰の種類は文明社会のそれとはもちろん異なっており、死刑、追放、平手打ちなどの体罰、財産の没収、原状回復、贖罪(しょくざい)金などがあるが、監獄に収容されるような刑罰などは一般には存しない。
これらの刑罰の態様も多様であって、たとえば、体罰も、ニュージーランドのマオリ人の裁判機関は、窃盗や旅行者の侮辱、その一定の非行を犯した者に対して石でもって自分の頭や胸を血が出るまで殴打することを命じるが、ときには、犯人に口が腫(は)れるような毒草を噛(か)ませ、そのため激しい痛みを感ずるものもある。また、ある窃盗に対する拷問は、犯人の手足を縛って、焼け付く日なたに放置することもある。
刑罰が社会構造を反映することもある。フィリピンのイフガオ人では、贖罪金の額は社会階層によって異なり、同じ殺人の罪を犯したときでも、中層以下の者の支払わなければならない額は、上層の者のそれよりも少ない。また、被害者の性別で、贖罪金の額が増減する社会もあり、一般には、女子よりも男子が殺害された場合に、贖罪金の額は多くなるが、男子よりも女子の労働力が評価されている社会では、逆に男子よりも女子が高い。また、だれが贖罪金を提供し、受領するかも重要である。アフリカのコーサXhosa人では、個人の体は首長(しゅちょう)に属するといわれていたから、個人が殺害されると、その首長が男子1人につき牛7頭、女子1人につき10頭を加害者に請求することができる。シベリアのチュクチ人では、父系親族が重視されるために、殺人の場合に、被害者を代表して父系親族が復讐(ふくしゅう)し、また贖罪金を受領する。
文字のない社会は文明社会と異なった独自の刑罰制度をもっている。血讐、氏族復讐などの社会集団相互の復讐には、基本理念としてタリオがある。刑罰は犯罪に対応し、殺人には殺害で償われるという考えである。それと同時に、集団責任の原則、すなわち、ある社会集団内では、成員の権利が保護されるとともに、成員の犯罪に対しては連帯責任を負うという原則によって支配される。殺人犯の属する集団の他の成員が被害者の集団の成員によって殺害され、報復されることもある。文字のない社会では、ちょっとした非行のために仲間のもの笑いの種になったり、また、重大な犯罪のために「村ハチブ(むらはちぶ)」にあうのは恐るべき処罰にあたり、文明社会の刑罰にみられない犯罪の発生を抑止する力をもつ。また、文字のない社会で、重要な行為へ同調させるための強制力をもつものに呪術(じゅじゅつ)的、宗教的信仰に基づく制裁がある。これらは社会によってさまざまであるが、タブー違反から生じる結果、超自然的なものの怒り、呪術的報復に対する恐れなどを、それぞれ信ずることである。これらの制裁が科せられると信ずることで、個人の行動様式が統制され、社会秩序が維持されるのであって、このような意味の制裁の観念も文明社会の刑罰の概念よりも広い。
[有地 亨]
『荘子邦雄・大塚仁・平松義郎編『刑罰の理論と現実』(1972・岩波書店)』▽『佐々波与佐次郎著『日本刑事法制史』(1967・有斐閣)』▽『石井良助著『刑罰の歴史』(1992・明石書店)』▽『石井良助著『江戸の刑罰』(1964・中公新書)』▽『阿部謹也著『刑吏の社会史』(1978・中公新書)』▽『江守五夫著「法と道徳」(『現代文化人類学4 人間の社会Ⅱ』所収・1960・中山書店)』
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…字義どおりには刑罰の執行全般を指すが,犯人の身柄拘束に限定し,罰金など財産刑の執行を含めないのが一般的である。犯人の身柄ということで,死刑囚や未決囚をも含めて,刑事施設における被拘禁者の処遇一般を指すこともあるが,これは刑の執行としての拘禁とそうでないものとの混同であり,特に無罪の推定もありうる未決拘禁者の法的地位に反するという批判がある。…
…刑罰に用いられる道具。拷問具や,在監者に対する懲罰用具,戒具を含めていうこともあり,この場合には獄具とも称する。…
…刑罰や刑法の意味・根拠等に関する理論。刑罰はどのような意味で科せられるかという刑法理論の根本問題については,すでにギリシアの哲学者が二つの答えを出していた。…
…(1)人々が集住することによって形成された,地域の共同団体ないし共同組織の内部に生成した秩序,と,(2)政治的社会の発達にともなって生みだされた上位の政治的権力がもつ,共同団体相互間に発生する紛争の調停機能,とがそれである。 これを刑罰についていえば,いわゆる内部的刑罰は(1)を基盤として生まれた刑罰であり,外部的刑罰は(2)を基盤として生まれた刑罰であるといえる。もっとも今日の学界の共通的理解では,日本の古典にみられる刑罰の多くは(1)を基盤とする内部的刑罰に属し,(2)を基盤とする外部的刑罰は,日本古代においては未成熟であったと考えられている。…
…あらゆる社会で否定的サンクションが肯定的サンクションより明確に規定されているが,規範への順応および逸脱に対するサンクション(賞と罰)は社会統制の重要な手段となっている。 サンクションの諸形態は,(1)けち,不良少年,尻軽女などとレッテルをはったり,うわさや笑いなどによる,明確な規定をもたぬ道徳的サンクション,(2)タブーの侵犯に対する神罰としての病などの宗教的サンクション,(3)村八分や刑法上の刑罰など,組織的かつ規則的に科せられる法的サンクションに一応分けられる。しかし否定的サンクションを,心理的・身体的・経済的損失によって事後・事前に行為を規制するものととらえるのは,刑罰を典型としてすべてを見る誤りであろう。…
…罰には,社会的規範にそむいた者に対して法的制裁を加える刑罰と,倫理的・宗教的規範を犯した者に加えられる超越的な制裁(天罰,神罰,仏罰)の2種がある。前者の刑罰については古くから,犯罪に対する応報的な刑罰と,犯罪の発生を予防するための抑止的な刑罰の2種の考え方があったが,罰として科せられる不快・苦痛の度合にもその考えにもとづいて軽重の差が設けられた。…
…この〈法度〉が公権力の制定法をさす称呼として一般的に現れるのは,戦国大名の個別法令である分国法においてであり,やがてこれが江戸幕府にも継承され,武家諸法度のように制定法の名称として定着した。この法度と称された法は,禁法・禁令的性格が強かったためか,その後,法度という語には禁制を意味する用例がみられ,江戸時代には一般的用語として禁止,さらには刑罰を意味する語としても使用されるに至った。【勝俣 鎮夫】。…
…社会に危険な行為をするおそれのある者に対して,社会の保安と本人の治療・改善を図るために加えられる処分。刑罰に代わり,または刑罰を補充するものとして行われる処分である。 刑罰は,犯罪予防の目的をもっているが,通常,過去の犯罪行為に対して,その行為が非難可能なときに,非難可能な範囲で科せられる。…
…そのほか,討死を覚悟した武将が自邸に火をつけて自刃する慣行,将軍に反抗して本国へ帰る大名が,自分の屋形に火をかける〈自焼没落〉など種々の放火の形がある。鎌倉幕府は,《御成敗式目》で,放火人に対する刑罰を盗賊に準拠と定めるのみであるが,《結城氏新法度(結城家法度)》など戦国法では放火を特に重犯として磔(はりつけ)刑に処すことを定めており,このような放火重罪観は江戸幕府法にも継承されていく。おそらく,このような法の流れの背後には,中世社会における屋焼(ややき)が,殺人,盗みとならんで最大の重犯罪と考えられ,これらの犯罪を当時〈大犯三箇条(だいぼんさんかじよう)〉と称していたという,放火に対する特別の観念が存在したものと思われる。…
…しかし,牢屋は人間の歴史とともに存在しており,その機能および社会的存在理由は,時代や諸地域の社会の進展とともに大きく変化し,当初から以上のようなものではなかった。
【西洋】
今日では,投獄は刑罰の一環として存在するが,前近代のヨーロッパの刑罰は死刑,漕役刑,笞刑,追放刑,強制重労働あるいは罰金刑,財産没収などが一般的であった。投獄によって身体を拘束するという措置は,被疑者が刑の宣告をうけ,刑が執行されるまで逃亡を防ぐための場合か,債権者の訴えによって負債を支払わない債務者が収監される場合で,投獄は刑罰でないとするローマ法の影響によるところが大きく,中世ヨーロッパの法原理はこれを踏襲した。…
※「刑罰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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