中城間切
なかぐしくまぎり
沖縄島の中部、東海岸にあり、ほぼ現在の中城村と北中城村にあたる。中頭方に属する。北は越来間切・美里間切、西は宜野湾間切・北谷間切、南は西原間切に接する。仲城とも記され、中城郡、中城県ともいう(「琉球国旧記」など)。里積記によると首里城から中城の間切番所までの距離は三里五勺六才(三里二〇町余)。東側を中城湾に沿うように宿道(東海道)がほぼ南北に走り、南で西原間切、北で美里間切に連結する。北西丘陵上に中城グスクがあり、「おもろさうし」巻二などには「中くすく」などのシマ名が散見される。弘治一四年(一五〇一)九月大吉日の玉御殿碑文に「中くすくのあんし」、嘉靖三八年(一五五九)一〇月一五日の今帰仁掟宛辞令書(県立図書館蔵)に「中くすくまきり」がみえる。正保国絵図には「中城間切」とあり、高三千一〇六石余。琉球国高究帳によれば村数二七、高三千一〇六石余、うち田二千一五八石余・畠九四七石余。同帳に掲載される間切・島のうちもっとも村数が多い。寛文八年(一六六八)の琉球国郷帳では間切合高・田方は同じで、畠方は八一七石余、桑役一三〇石余となっている。
琉球王国の世子領である。「中山世鑑」や「中山世譜」によれば、世子領としての加領も含め中城や久米中城の名称が尚真王(在位一四七七―一五二六年)・尚清王(在位一五二七―五五年)の頃から尚典(尚泰王の王子)までみえる。「南島風土記」は羽地朝秀(向象賢)の摂政期の布令や寛文七年に久米中城が仲里と改称されたことを理由に、同年以降、世子領は中頭の中城を主領とし、久米仲里・久米具志川両間切を加領としたとする。ただ「羽地仕置」では先の布令は確認できず、また寛文七年に久米中城を仲里に改称したとする史料も見出せない。これはおそらく康熙六年(一六六七)に久米島の仲城城(現久米島町)が仲里城の名称に変更されていること(琉球国旧記)をさしていると思われ、また同年に中城間切の惣地頭阿邦卿の名が伊舎堂に代わっていることなどから(阿姓前川家家譜)、中頭の中城間切が世子領に定まったのは康熙六年頃のことと思われる。
「南島風土記」は琉球国高究帳に記される二七ヵ村のうち前普天間村・寺普天間村の二ヵ村(現宜野湾市)は宜野湾間切に移され、玉城村を廃し、熱田・比嘉の二ヵ村(現北中城村)を新設し、照屋村を添石村に、宮城村(現同上)を渡口村(現同上)に併合したとするが、詳細ははっきりしない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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