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向象賢 しょうじょうけん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

向象賢
しょうじょうけん

[生]元和3(1617).5.4. 首里
[没]延宝3(1675).11.20. 首里
和名羽地朝秀。琉球近世期の政治家。薩摩藩支配下の琉球で種々の改革を行なった。その内容は『羽地仕置』に示され,古代的祭祀・信仰の統制,開墾奨励,諸地頭の恣意的収奪の排除,日本文化の導入策などに要約される。また,日琉同祖論の最初の唱道者でもある。

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デジタル大辞泉の解説

しょう‐しょうけん〔シヤウシヤウケン〕【向象賢】

[1617~1675]琉球王国の政治家。向象賢は唐名。羽地朝秀(はねじちょうしゅう)ともいう。王族の出身といわれ、尚貞王摂政をつとめた。琉球最初の史書「中山王鑑」を編纂(へんさん)。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

向象賢 しょう-じょうけん

1617-1676* 琉球の政治家。
尚寧王29年5月4日生まれ。1666年摂政となり,対清(しん)(中国),対薩摩(さつま)関係の安定化につとめる。また学問の奨励,農業の振興などの改革をすすめ,その実際は「羽地(はねじ)仕置」にまとめられている。日琉同祖論をとなえた。尚貞王7年11月20日死去。59歳。和名は羽地朝秀(ちようしゆう)。編著に「中山世鑑(ちゅうざんせいかん)」。

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朝日日本歴史人物事典の解説

向象賢

没年:尚貞7.11.20(1676.1.5)
生年:尚寧29.5.4(1617.6.6)
17世紀の琉球国の政治家。向は尚を略したもので,読みは尚に同じ。字名は文英,号は通外。羽地重家,羽地按司(王子)朝秀とも称した。琉球で最初の正史『 中山世鑑』(1650)の著者。尚質19(1666)年,琉球国最高の摂政職に就任,北谷・恵祖事件(1667)による琉球政界混乱のなかでも薩摩藩の支持を得て,尚貞5(1673)年までの7年間に王国の抜本的な改革策を打ち出した。尚寧21(1609)年の薩摩支配以後,「琉球国の衰微は甚だしく,また王府は借銀の増大を解決しえないまま王府の役人は惰性に流れている」と『羽地仕置』(羽地が摂政期に布達した文書集)で琉球社会を嘆いている。その状況のなかで,羽地の改革の中身は,古琉球に淵源を有する伝統的祭祀体系を改変し,国王の久高島などへの聖地巡礼も廃止・削減された。さらに,王府組織の合理化と官人意識の刷新があった。官人たるにふさわしい諸芸(学問・算勘・謡・茶道・立花など)の修養の義務化,砂糖や鬱金などの専売制による王府財政の再建策,農村支配の強化と農業生産の整備,その他,伝統的な冠婚葬祭などの慣習の改革も求めた。外交面では,幕藩制国家を頼って明清交代で大陸に置き去りにされた琉球人の救助要請,さらに薩摩藩の命じる年貢率に対して,その引き下げを交渉するなど琉球国の再建に奮闘した。「百姓にいたるまで富貴になったのは,独力にあらざるや」(『羽地仕置』)と豪語するほどの自信家でもあった。<参考文献>高良倉吉「向象賢の論理」(『新琉球史』近世編上)

(豊見山和行)

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世界大百科事典 第2版の解説

しょうじょうけん【向象賢】

1617‐75
琉球王国の政治家。羽地朝秀(はねじちようしゆう)あるいは単に羽地王子の名でも知られる。王家の血筋をひく名門に生まれ,1650年に沖縄初の史書《中山世鑑(ちゆうざんせいかん)》を著した。66年王府最高のポストである摂政に就任し国政に敏腕をふるった。彼の政治は島津侵入事件(1609年の琉球征服)により幕藩体制の一環に編成された王国の現実を直視し,王国古来の伝統をいかに幕藩体制的秩序に再編成するかに主眼がおかれた。

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大辞林 第三版の解説

しょうしょうけん【向象賢】

1617~1675) 琉球の政治家・学者。向象賢は唐名で、羽地はねじ朝秀ともいう。1650年「中山世鑑ちゆうざんせかん」を著し、日琉文化融合に尽力。他に著「羽地仕置」がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

向象賢
しょうしょうけん
(1617―1675)

琉球(りゅうきゅう)王国の政治家。向象賢は唐名で、羽地朝秀(はねじちょうしゅう)ともよばれる。王族の名家の出で、青年のころから国政の現状を憂い、他日政治家として国勢の再興に尽くすことを心に誓ったという。和漢の教養に優れ、1650年、王尚質(しょうしつ)の命により琉球初の史書『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』を編述した。66年、王国最高の政治ポストである摂政(せっせい)(国相(こくしょう))に就任し、73年に引退するまでの7年間、文字どおり国政に敏腕を振るった。
 琉球は1609年(慶長14)の島津侵入事件以後、薩摩(さつま)藩の支配を介して幕藩体制の一環に編成された。その反面、諸藩とは異なる異国=王国としての存在も温存されたため、政治的混乱が続き、経済・社会は疲弊し人心は動揺を極めていた。向象賢は、薩摩藩・幕藩体制との協調を前提に、統治主体としての中山王府を再建・強化し、王府を中心とする琉球社会の再編成を目ざした。行政機構の整備、役人制度の刷新、儒教的価値観の導入、産業振興などの諸施策を相次いで推進したが、その主たる目標は、古琉球(中世)より続いてきた王国古来の伝統を近世社会としていかに組み直すか、という点に置かれていた。そのために、宗教・祭祀(さいし)をはじめ冠婚葬祭に対する介入はもとより、政治・行政における各種儀礼の排除などを断行している。また、王府行政機構の整備、耕地開墾(仕明(しあけ)という)政策を推進するなど抜本的な施策を展開している。その施政下に出された布達を集めた『羽地仕置(しおき)』をみると、さまざまな非難中傷にさらされながらも、激しい気性で意図する政治を展開した彼の自信をうかがうことができる。摂政引退後、心労のためかほどなくして他界している。[高良倉吉]

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367日誕生日大事典の解説

向象賢 (しょうしょうけん)

生年月日:1617年5月4日
江戸時代前期の琉球国の政治家
1676年没

出典|日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について | 情報

世界大百科事典内の向象賢の言及

【琉球】より


[近世体制の確立]
 薩摩,幕府に従属してその基本制度を受け入れつつ中国との伝統的な関係も維持して,そのうえで国家的存在としての王国の存続を図るという条件下に琉球はおかれた。この条件下で施政を担当した代表的な政治家が向象賢(しようじようけん)(1617‐75)と蔡温(さいおん)(1682‐1761)の2人である。向象賢(羽地朝秀(はねじちようしゆう)ともいう)は,琉球の伝統的な諸制度をいかに日本の幕藩体制に見合うように切り換えるか,そのために首里王府をいかに強化するか,同時にまた生産をいかに増加させるか,といった基本的課題を担当した。…

※「向象賢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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