琉球(りゅうきゅう)王国の政治家。向象賢は唐名で、羽地朝秀(はねじちょうしゅう)ともよばれる。王族の名家の出で、青年のころから国政の現状を憂い、他日政治家として国勢の再興に尽くすことを心に誓ったという。和漢の教養に優れ、1650年、王尚質(しょうしつ)の命により琉球初の史書『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』を編述した。66年、王国最高の政治ポストである摂政(せっせい)(国相(こくしょう))に就任し、73年に引退するまでの7年間、文字どおり国政に敏腕を振るった。
琉球は1609年(慶長14)の島津侵入事件以後、薩摩(さつま)藩の支配を介して幕藩体制の一環に編成された。その反面、諸藩とは異なる異国=王国としての存在も温存されたため、政治的混乱が続き、経済・社会は疲弊し人心は動揺を極めていた。向象賢は、薩摩藩・幕藩体制との協調を前提に、統治主体としての中山王府を再建・強化し、王府を中心とする琉球社会の再編成を目ざした。行政機構の整備、役人制度の刷新、儒教的価値観の導入、産業振興などの諸施策を相次いで推進したが、その主たる目標は、古琉球(中世)より続いてきた王国古来の伝統を近世社会としていかに組み直すか、という点に置かれていた。そのために、宗教・祭祀(さいし)をはじめ冠婚葬祭に対する介入はもとより、政治・行政における各種儀礼の排除などを断行している。また、王府行政機構の整備、耕地開墾(仕明(しあけ)という)政策を推進するなど抜本的な施策を展開している。その施政下に出された布達を集めた『羽地仕置(しおき)』をみると、さまざまな非難中傷にさらされながらも、激しい気性で意図する政治を展開した彼の自信をうかがうことができる。摂政引退後、心労のためかほどなくして他界している。
[高良倉吉]
(豊見山和行)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
琉球王国の政治家。羽地朝秀(はねじちようしゆう)あるいは単に羽地王子の名でも知られる。王家の血筋をひく名門に生まれ,1650年に沖縄初の史書《中山世鑑(ちゆうざんせいかん)》を著した。66年王府最高のポストである摂政に就任し国政に敏腕をふるった。彼の政治は島津侵入事件(1609年の琉球征服)により幕藩体制の一環に編成された王国の現実を直視し,王国古来の伝統をいかに幕藩体制的秩序に再編成するかに主眼がおかれた。王府機構の整備,役人の服務規程の明確化,開墾と生産増進策,固有信仰や伝統的価値観の規制などがそのおもな内容をなし,布達文書集《羽地仕置》にその施策の本質をうかがうことができる。周到な戦略家であると同時に激しい気性の自信家でもあった。彼の施策に対する批判・抵抗もかなり根強かったらしく,〈琉球内に自分の真意を理解してくれる人は一人もいない〉と慨嘆している。近世琉球の政治路線の枠組みをつくりあげた傑出した政治家であり,73年に摂政を退くまでの間,精力的に王国の復興に力を注いだ。
執筆者:高良 倉吉
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[近世体制の確立]
薩摩,幕府に従属してその基本制度を受け入れつつ中国との伝統的な関係も維持して,そのうえで国家的存在としての王国の存続を図るという条件下に琉球はおかれた。この条件下で施政を担当した代表的な政治家が向象賢(しようじようけん)(1617‐75)と蔡温(さいおん)(1682‐1761)の2人である。向象賢(羽地朝秀(はねじちようしゆう)ともいう)は,琉球の伝統的な諸制度をいかに日本の幕藩体制に見合うように切り換えるか,そのために首里王府をいかに強化するか,同時にまた生産をいかに増加させるか,といった基本的課題を担当した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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