中央アジア探検(読み)ちゅうおうアジアたんけん

改訂新版 世界大百科事典 「中央アジア探検」の意味・わかりやすい解説

中央アジア探検 (ちゅうおうアジアたんけん)

中央アジアは大別して東トルキスタン西トルキスタンに分かれる。この両地域は,地理的にも政治的にも長く西欧触手の伸びない地帯であったが,19世紀に入ると帝政ロシアが南下策をとるとともに,たちまち国際紛争渦中に入り,多くの探検家の活躍舞台となった。こうした現象の原因は,要約すれば次の3点である。

 第1はユーラシア大陸におけるイギリスロシアの帝国主義的対立である。とくに西トルキスタンでは,19世紀になるとロシアがブハラ,ヒバ,ホーカンドの3ハーン国への侵略を目ざしたので,インドを植民地とするイギリスはこれを最も恐れ,その情勢を探るため何人もの探検家をこの地方に送りこんだのである。ムーアクロフトWilliam Moorcroft(1765?-1825),バーンズAlexander Burnes(1805-41),ストッダートCharles Stoddart(1806-42)らの探検はいずれもその好例であるが,この時代には現地人との紛争から非業最期をとげた探検家が少なくない。第2は,この地方が考古学資料の宝庫だったことである。とくに東トルキスタンからは古文書学,言語学,歴史学等の各分野を驚倒させるような貴重な資料が続出し,ついに組織的な学術調査隊の派遣が要請されるようになった。スタインル・コックペリオらの探検は,その代表的なものである。第3はこの地域,とくに東トルキスタンは地球上,最も遅くまで地理的空白地帯の多い所であった。そこで野心的な探検家は陸続とこの地方を探検し,次々に地理上の新発見を行った。プルジェワリスキーヘディンコズロフハンティントンらの探検は,いずれもその好例である。

 西トルキスタンの探検は,ロシアの3ハーン国征服(1865-87)後,外国人にはほとんど不可能となった。そこで19世紀末以来,東トルキスタンの探検が熱心に行われた。その傾向をおおまかに分類してみると,19世紀末ごろまではプルジェワリスキーやヘディンらの地理学的個人的探検が盛んであり,次いで1901-15年間には,イギリスのスタイン,ドイツのグリュンウェーデルAlbert Grünwedel(1856-1935),ル・コック,フランスのペリオら各国の組織的学術調査が行われた。その後は中華民国成立によって,外国人の調査・探検が禁止され,わずかに中国人との共同調査計画のみが許可されるようになった。ヘディンの西北科学考査団(1927-35),マリアールトの中仏学術調査団(1931)などがその一例である。
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