ペリオ(読み)ぺりお(英語表記)Paul Pelliot

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ペリオ」の意味・わかりやすい解説

ペリオ
ぺりお
Paul Pelliot
(1878―1945)

フランスが生んだ世界最大の東洋学者。パリに生まれ、東洋語学校などを卒業。21歳でインドシナ古跡調査部(フランス極東学院の前身)に入る。中国留学後、1901年からハノイのフランス極東学院教授。11年に33歳の若さでフランス学院(コレージュ・ド・フランス)の教授となり、23年からは東洋学雑誌T'oung Pao(通報)の編集にも携わって学界をリードした。その学問の領域はフランス学院の教授アベル・レミュザによって基礎づけられた近代的な学問としてのシノロジーsinology(中国学、シナ学)の伝統を継承、発展させつつも、それを超えた。すなわちトルキスタン化する以前の中央アジアの歴史学・言語学、アルタイ言語学を含むトルコ・モンゴル学、モンゴル帝国時代の東西交渉史学のうえに一大金字塔を打ち建て、さらにはチベット学、東南アジア学にまで及んだ。このような彼の学問形成に決定的役割を果たしたのは、1906年から09年にかけてフランスの学界を代表する形で行われた中央アジア探検である。そのときの原地調査の経験と、西域北道および敦煌(とんこう)から将来された多種多様の遺物文書は、彼の生涯を通じての学問的財産となった。現在、彼の将来した文書類はパリ国立図書館に、遺物類はギメ美術館に所蔵されている。『敦煌千仏堂』ほか著書論文が多くある。

[森安孝夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ペリオ」の意味・わかりやすい解説

ペリオ
Pelliot, Paul

[生]1878.5.28. パリ
[没]1945.10.26. パリ
フランスの東洋学者。 1901年ハノイの極東フランス学院の中国語教師となり,06~09年中央アジアの考古探検を行い,敦煌の遺跡で6~11世紀の仏像壁画,写本経巻など数多くの資料を収集した。モンゴル,中国などの研究も行なった。 11年コレージュ・ド・フランスの教授。第1次世界大戦ではバルカン方面に従軍,のち北京のフランス公使付き武官。晩年アジア協会の会長に就任した。著書『敦煌石窟』 Les grottes de Touenhouang (6巻,1920~24) ,『中央アジアにおけるペリオ使命』 La mission Pelliot en Asie centrale (24) ,『中国の美しい硬玉』 Jades archaïques de la Chine (25) 。

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