寺山修司(読み)テラヤマシュウジ

デジタル大辞泉 「寺山修司」の意味・読み・例文・類語

てらやま‐しゅうじ〔‐シウジ〕【寺山修司】

[1935~1983]劇作家・歌人。青森の生まれ。早熟の歌人として才能を示したが、のち劇団「天井桟敷」を主宰して前衛演劇活動を展開。歌集「空には本」、戯曲集「血は立ったまま眠っている」など。

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精選版 日本国語大辞典 「寺山修司」の意味・読み・例文・類語

てらやま‐しゅうじ【寺山修司】

  1. 詩人、歌人、劇作家。青森県出身。昭和三三年(一九五八)第一歌集「空には本」で前衛歌人としての地位を確立。俳句も残した。劇作・演出、映画製作・監督、評論など多彩な活動を展開した。劇団「天井桟敷」主宰。代表作は、長編叙事詩「地獄篇」、放送劇「山姥」、戯曲「毛皮のマリー」など。昭和一〇~五八年(一九三五‐八三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「寺山修司」の意味・わかりやすい解説

寺山修司
てらやましゅうじ
(1935―1983)

詩人、歌人、劇作家、シナリオライター、映画監督。昭和10年12月10日青森県に生まれる。早稲田(わせだ)大学教育学部国文科中退。青森高校時代に俳句雑誌『牧羊神』を創刊、中村草田男(くさたお)らの知遇を得て1953年(昭和28)に全国学生俳句会議を組織。翌1954年早大に入学、『チェホフ祭』50首で『短歌研究』第2回新人賞を受賞、その若々しい叙情性と大胆な表現により大きな反響をよんだ。この年(1954)ネフローゼを発病。1959年谷川俊太郎(しゅんたろう)の勧めでラジオドラマを書き始め、1960年には篠田正浩(しのだまさひろ)監督『乾いた湖』のシナリオを担当、同年戯曲『血は立ったまま眠っている』が劇団四季で上演され、脱領域的な前衛芸術家として注目を浴びた。1967年から演劇実験室「天井桟敷(さじき)」を組織して旺盛(おうせい)な前衛劇活動を展開し続けたが、昭和58年5月4日47歳で死去。歌集に『空には本』(1958)、『血と麦』(1962)、放送の分野では『山姥(やまうば)』(1964。イタリア賞受賞)、『犬神の女』(1965。久保田万太郎賞受賞)、舞台の代表作に『青森県のせむし男』『毛皮のマリー』(ともに1967)、市街劇『人力飛行機ソロモン』(1970)、市街劇『ノック』(1975)、『奴婢訓(ぬひくん)』(1978)、映画監督作品に『田園に死す』(1974)など。多くの分野に前衛的秀作を残し、既成価値にとらわれない生き方を貫いた。

大笹吉雄

資料 監督作品一覧

檻囚(おり)(1962)
書を捨てよ町へ出よう(1971)
トマトケチャップ皇帝(1971)
ジャンケン戦争(1971)
田園に死す(1974)
蝶服記(1974)
ローラ(1974)
青少年のための映画入門(1974)
迷宮譚(たん)(1975)
審判(1975)
疱瘡(ほうそう)譚(1975)
マルドロールの歌(1977)
一寸法師を記述する試み(1977)
影の映画 二頭女(にとうおんな)(1977)
消ゴム(1977)
ボクサー(1977)
書見機(1977)
支那人形(1980)
上海異人娼館 チャイナ・ドール(1981)
草迷宮(1983)
さらば箱舟(1984)

『『寺山修司全歌集』(1982・沖積舎)』『『寺山修司全詩歌句』(1986・思潮社)』『『寺山修司戯曲全集』全3巻(1982~1983・劇書房)』『寺山修司他著『寺山修司の世界』(1983・新評社)』

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20世紀日本人名事典 「寺山修司」の解説

寺山 修司
テラヤマ シュウジ

昭和期の劇作家,演出家,映画監督,歌人,詩人 元・天井桟敷代表者。



生年
昭和10(1935)年12月10日

没年
昭和58(1983)年5月4日

出生地
青森県弘前市紺屋町

出身地
青森県上北郡六戸村(現・三沢市・籍)

学歴〔年〕
早稲田大学教育学部〔昭和31年〕中退

主な受賞名〔年〕
短歌研究新人賞(第2回)〔昭和29年〕「チェホフ祭」,イタリア賞グランプリ〔昭和39年 41年〕,芸術祭賞奨励賞〔昭和39年 41年 43年〕,久保田万太郎賞(第1回)〔昭和39年〕「犬神の女」,芸術祭賞〔昭和42年〕,年間代表シナリオ(昭43年度 49年度 53年度)「初恋・地獄篇」「田園に死す」「サード」,サンレモ国際映画祭グランプリ〔昭和46年〕「書を捨てよ町へ出よう」(映画監督),芸術選奨文部大臣新人賞(第25回・昭49年度)「田園に死す」,日本作詩大賞作品賞(昭47 48年度)「ひとの一生かくれんぼ」「たかが人生じゃないの」(唄・日吉ミミ)

経歴
在学中から前衛歌人として注目されたが、卒業後は既成の価値観や常識に反逆して“書を捨てよ町へ出よう”と呼びかけ、昭和42年には演劇実験室・天井桟敷を設立、作家兼演出家として多彩な前衛活動を展開して時代の寵児となった。著書「家出のすすめ」は多くの家出少年を天井桟敷に惹きつける一方、世間の反発を呼んだ。また競馬やボクシングの解説者としても活躍し、テレビアニメ「あしたのジョー」の主題歌の作詞も手掛けた。主な舞台に市街劇「ノック」や「盲人書簡」「疫病流行記」「奴婢訓」「レミング」「百年の孤独」など。著作に歌集「血と麦」「田園に死す」、小説「あゝ荒野」、戯曲集「血は立ったまま眠っている」、評論集「遊撃とその誇り」、長編叙事詩「地獄篇」など、映画作品に「トマトケチャップ皇帝」「書を捨てよ町へ出よう」「田園に死す」などがあるほか、「寺山修司全歌集」(沖積舎)「寺山修司全詩歌句」(思潮社)「寺山修司演劇論集」(国文社)「寺山修司の戯曲」(全9巻 思潮社)がある。平成9年三沢市に寺山修司記念館がオープン。11年、’60年代に楽曲用として作っていた詞8編が見つかり、曲をつけてCD化される。

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百科事典マイペディア 「寺山修司」の意味・わかりやすい解説

寺山修司【てらやましゅうじ】

歌人,詩人,劇作家,演出家,映画監督。青森県生れ。早大中退。俳句を中心として文学活動を始め,ついで短歌に転じて,1950年代後半には前衛短歌の代表的歌人と目される。1960年ころより演劇に移行,1967年には〈演劇実験室天井桟敷〉を結成し,市街劇など多彩な実験演劇を試み,小劇場運動の担い手となった。代表作《毛皮のマリー》(1967年),《奴婢訓》(1978年)など。映画《田園に死す》(1974年)ほか,ボクシング,競馬の評論など,多彩な活動を行った。
→関連項目浅川マキ粟津潔伊丹十三唐十郎篠田正浩小劇場演劇鈴木忠志相米慎二塚本邦雄中井英夫横尾忠則

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改訂新版 世界大百科事典 「寺山修司」の意味・わかりやすい解説

寺山修司 (てらやましゅうじ)
生没年:1935-83(昭和10-58)

歌人,詩人,劇作家,演出家,映画監督,競馬評論家。青森県に生まれる。早稲田大学中退。高校時代に俳句を中心とした文学活動を展開,山口誓子,橋本多佳子らの知遇を得る。のち短歌に転進,1954年〈チェホフ祭〉50首で短歌研究新人賞を受賞,詩壇,歌壇の注目を集める。ネフローゼ発病のため数年の入院生活を送るが,代表歌〈マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや〉(《空には本》)は当時の作品。59年,ラジオ・ドラマ《中村一郎》により民放祭大賞を受賞,劇作家としての才能を示し,《血は立ったまま眠っている》(1960)などの戯曲を次々に発表する。63年,大学祭などで〈家出のすすめ〉を説いてまわり,社会的な話題となる。ボクシング評論,競馬評論なども手がけるが,67年,横尾忠則,東由多加らと演劇実験室〈天井桟敷〉を結成,以後,演劇を中心とした総合的な芸術運動を展開する。はじめ見世物の復権を称えるが,やがて市街劇,密室劇,書簡劇など多彩な実験演劇を試み,代表作《奴婢訓(ぬひくん)》(1978)にいたる。映画《田園に死す》(1974)をはじめ映像作品も多く,その演劇映画活動は国際的な評価を得た。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「寺山修司」の意味・わかりやすい解説

寺山修司
てらやましゅうじ

[生]1935.12.10. 青森
[没]1983.5.4. 東京
歌人,劇作家,演出家,詩人。早稲田大学国語国文科中退。高校の頃から詩才に注目され,大学進学後,短歌 50首『チェホフ祭』 (1954) で『短歌研究』新人賞受賞。「私」性を排したロマンとしての短歌で戦後短歌史に新しい1ページを開いた。 1960年処女長編戯曲『血は立ったまま眠っている』を発表。 67年に横尾忠則らと実験演劇室「天井桟敷」を結成,見世物の復権を唱え,徹底した前衛性と市街の劇場化などで国内外にセンセーションを巻き起した。代表作に『毛皮のマリー』 (67) ,『奴婢訓』 (78) など。『田園に死す』 (74) などの映画や,エッセイ,評論でも鋭い感性と独自の視点を表わした。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「寺山修司」の解説

寺山修司 てらやま-しゅうじ

1935-1983 昭和時代後期の歌人,劇作家。
昭和10年12月10日生まれ。昭和29年「チエホフ祭」50首で「短歌研究」新人賞。以後,戯曲,シナリオ,小説,評論などの作品を発表。42年横尾忠則らと劇団天井桟敷を結成し,前衛演劇活動を国内外で展開した。昭和58年5月4日死去。47歳。青森県出身。早大中退。歌集に「血と麦」,戯曲に「血は立ったまま眠っている」,映画監督作品に「田園に死す」など。
【格言など】書を捨てよ,町へ出よう(昭和44年刊の書名)

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367日誕生日大事典 「寺山修司」の解説

寺山 修司 (てらやま しゅうじ)

生年月日:1935年12月10日
昭和時代の劇作家;演出家;映画監督;歌人;詩人
1983年没

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世界大百科事典(旧版)内の寺山修司の言及

【前衛劇】より

…【利光 哲夫】
[日本における新しい演劇]
 日本においても1960年代・70年代,とくに67年以降70年代前半にかけては,〈新しい演劇〉の活動がきわめて活発に行われた時期であった。具体的には,当時の新聞紙上を一種の風俗的な〈事件〉としても賑わすことの多かった,唐十郎(からじゆうろう),寺山修司あるいは鈴木忠志(ただし),佐藤信(まこと)などの活動であるが,これらは当時,〈アンダーグラウンド演劇〉あるいはしばしば略して〈アングラ演劇〉などという名前で,マスコミに総称されていた。この〈アングラ演劇〉という名称は,もとをただせば英語からの移入であるが,実際にいくつか現れた地下劇場なども念頭に置いて,その劇的想像力の上で白昼的であるよりは地下的な,体制的であるよりは反体制的な,一群の新しい演劇の全体的傾向をとらえて,ジャーナリズムが命名を行い,しだいに定着していったものと思われる。…

【パフォーマンス】より

…ともに1960年創立の〈グループ音楽〉(小杉武久,刀根康尚,塩見千枝子ほか),〈ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ〉(篠原有司男(うしお),吉村益信,風倉省作ほか),62年10月の車中パフォーマンス《山手線事件》や63年5月の街頭パフォーマンス《第一次ミキサー計画》のメンバーによる〈ハイレッド・センター〉(赤瀬川原平,中西夏之,高松次郎ほか)などは,互いに相互関係をもっただけではなく,〈暗黒舞踏〉の土方巽(ひじかたたつみ)や実験映画グループ〈ヴァン映画科学研究所〉(足立正生ほか)などとも,また海外の〈フルクサス〉とも横断的な関係をもった。 1960年代の日本のパフォーマンス活動が与えた影響には計り知れないものがあり,その遺産を演劇や映画に活用した芸術家の一人として寺山修司がいる。70年代の日本のパフォーマンス活動そのものは,田中泯(みん)らの〈舞踏〉を除くと,全体として活気に乏しかったが,84年にナムジュン・パイクNam Jun Paik(1932‐ )とヨゼフ・ボイス(いずれも〈フルクサス〉のメンバー),より若い世代のローリー・アンダーソンLaurie Anderson(1947‐ )が来日し,〈パフォーマンス・ブーム〉が再燃しはじめ,ビデオやコンピューターの電子テクノロジーを駆使した新しいパフォーマンスも試みられるようになった。…

※「寺山修司」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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