日本大百科全書(ニッポニカ) 「高梨豊」の意味・わかりやすい解説
高梨豊
たかなしゆたか
(1935― )
写真家。東京・牛込に生まれる。1957年(昭和32)日本大学芸術学部写真学科卒業後、桑沢デザイン研究所の夜間部に入学、大辻清司(きよじ)に師事。1961年日本デザインセンターに入社、まず広告写真の分野で活動を開始する。1963年芸能人が素顔に戻った瞬間を活写した連作「オツカレサマ」を『カメラ毎日』誌1~12月号に発表。この連作により、翌年日本写真批評家協会新人賞受賞。1966年『カメラ毎日』1月号に「東京人」を掲載、初期の代表作となる。高度経済成長期の大都市の公共空間に集う人々の様態を私的なまなざしによってとらえ、悲哀、孤独、疎外といった感情を巧みに引き出した。この連作にはロバート・フランクの写真集『アメリカ人』The Americansの影響が認められ、『アメリカ人』同様にグラフ・ジャーナリズムにおける「客観的」なメッセージ伝達の失効という時代状況を鋭く衝(つ)いている。「東京人」ともう一つの連作「Tomorrow」を出品した1967年のパリ青年ビエンナーレで国際写真部門最高賞受賞。1968年写真同人誌『プロヴォーク』を写真家中平卓馬(なかひらたくま)、評論家多木浩二(1928―2011)、詩人・美術評論家岡田隆彦(1937―1997)らと発刊する。「東京人」以後高梨が追求した、流動して止まない都市の実相を、高度な叙情性と気象や物質に対する優れた感受性によってとらえる作品は、1974年の初の写真集『都市へ』に結実した。1960年代後半から1970年代前半にかけての高梨の写真は、森山大道(だいどう)、中平らの写真と、印画紙上の粒子の粗(あら)さや、軟焦点の描写において形式的な共通性を示すが、高梨の場合写真に写される形を全面的に破壊することを回避し、人間のいる環境を描写することへの私的な関心を持ちつづけていた。1960年代後半にはじまる一連の作品のもつ内省的な側面によって、アメリカの同時代の新しいドキュメンタリーの動向を日本に翻案・適用した「コンポラ写真」(アメリカ、ニューヨーク州ロチェスターのジョージ・イーストマン・ハウス国際写真博物館におけるグループ展「コンテンポラリー・フォトグラファーズ――社会的風景に向かって」(1966)に見られる、明快な社会的メッセージ性を抑制し、撮影対象との物理的な距離感を保ちつつ、プライベートな視線を重視した動向の写真と、類似した傾向を示すと当時理解された一連の日本の写真を指す。この理解は曖昧(あいまい)で必ずしも正確なものではなかった)の先駆的存在とみなされ、後続する写真家の指標となった。
1977年写真集『街』を刊行。このカラーの連作では主に6×7センチメートル、4×5インチといったより大きなフォーマットのカメラを用いて、都市の一隅を丹念に記録した。『街』は、高梨のもう一つの側面である、都市の構造分析への関心を物語る作例であり、こののち『都の貌(かお)』(1988)、『地名論』(2000)といった写真集にまとめられた代表作にも、同様の禁欲的な記録や分析への意思と、都市をテクストとして読解する試みが定着している。『地名論』では、歴史的な記憶を新規の建造物や道路が次々に隠蔽していく東京に、わずかにかいま見られる歴史的痕跡を冷静に拾い上げようとする。一方で、『都市へ』の中にあった湿潤な気候風土を官能的に写し取る仕事は、「Pre-landscape(風景以前)」という副題のついた写真集『初國(はつくに)』(1993)において、近代的な風景の成立から遡(さかのぼ)って、日本の神話や宗教的な記憶の場所をたどる営為に発展した。
日本写真協会年度賞を二度受賞(1985、1994)しているほか、東川(ひがしかわ)町国際写真フェスティバル国内作家賞受賞(1993)。1983~2000年(平成12)東京造形大学教授。
[倉石信乃]
『『都市へ』(1974・イザラ書房)』▽『『街』(1977・朝日新聞社)』▽『『都の貌』(1988・アイピーシー)』▽『『初國』(1993・平凡社)』▽『『地名論』(2000・毎日コミュニケーションズ)』▽『「疾駆する写真家『高梨豊〈方法論〉の彼方へ』」展図録(カタログ。1996・ガーディアン・ガーデン)』▽『「東京造形大学退職記念写真講座展 高梨豊『写真、人によって』展」図録(カタログ。2000・東京造形大学美術館運営委員会)』