中御門家(読み)なかみかどけ

改訂新版 世界大百科事典 「中御門家」の意味・わかりやすい解説

中御門家 (なかみかどけ)

(1)藤原氏北家の流れ。家格は羽林家。右大臣藤原頼宗の孫にあたる権大納言宗俊(1046-97)を祖とし,その子藤原宗忠中御門に居を構えたのにちなんで家号とした。宗忠の日記《中右記》は,中御門右大臣記の略である。宗忠の弟宗輔,その子伊通(これみち)は太政大臣に,また宗忠の子宗能は内大臣に補任されるなど,院政期に相次いで顕要の職を占めた。その後,鎌倉・室町時代は大納言を先途とし,室町時代の権中納言宗宣のとき以来松木を号した。なお同族に,持明院家をはじめ園,東園,壬生,高野,石野,石山,六角家などがある。
松木家
(2)藤原氏北家の流れ,勧修寺(かじゆうじ)家庶流。家格は名家。鎌倉時代の中納言勧修寺経俊の四男権大納言経継を始祖とし,経継が中御門を号して以来,代々家の号とした。権大納言を先途とする。経継の孫宣明は後醍醐天皇の信任厚く,皇子養育にあずかるが,のち北朝において要職に就く。室町時代に従一位に叙された明豊,宣胤(のぶたね),宣秀の3名は,いずれも朝儀荒廃の中で故実典礼を究めたが,宣胤・宣秀父子は《宣胤卿記》《宣秀卿記》の著者としても著名。江戸時代末,岩倉具視らと王政復古に尽力した経之(1820-91)は,維新後も新政府の要職に就くが病のため辞官した。しかしその功により,その子経明が1884年7月華族令の制定のさい伯爵を授けられ,さらに88年に侯爵になった。また経之の子経隆は80年に分家して一家を興し,84年に男爵を授けられている。なお江戸時代の家禄は200石である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中御門家」の意味・わかりやすい解説

中御門家
なかみかどけ

藤原氏北家(ほっけ)勧修寺(かじゅうじ)流の公家(くげ)。家格は権大納言(ごんだいなごん)を極官(ごっかん)とする名家。勧修寺資経(すけつね)の子坊城経俊(ぼうじょうつねとし)の四男経継(つねつぐ)が鎌倉後期に中御門と号したのを祖とする。代々天皇の側近として仕え、とくに室町時代の明豊(あきとよ)、宣胤(のぶたね)、宣秀(のぶひで)は学殖も深く、衰微した朝廷にあって故実典礼(こじつてんれい)を守った。江戸時代の知行高(ちぎょうだか)は200石、また尚良(ひさよし)の二男宣持(のぶもち)は分家して岡崎家をおこした。江戸中・末期は若死にする者が多く、他家から養嗣子(ようしし)を迎えた。幕末の経之(つねゆき)は明治維新に功をたて、維新後、華族に列し家格により子の経明(つねあき)が伯爵となったが、経之の功により1888年(明治21)侯爵を授けられた。また経之の三男隆家(たかいえ)は分家して男爵を授けられた。なお、関白道長(みちなが)の二男頼宗(よりむね)の子孫が、一時中御門を称したが、のちに松木と称して今日に至った家もある。

[飯倉晴武]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中御門家」の意味・わかりやすい解説

中御門家
なかみかどけ

(1) 藤原北家勧修寺流 鎌倉時代後期,経継が称したのに始る。南北朝時代は経宣,宣明,宣方と北朝に仕え,室町時代には高位を得る者多く,宣胤は『宣胤卿記』を残している。江戸時代は家禄 200石。明治にいたり伯爵を経て侯爵を授けられた。 (2) 藤原北家 道長の曾孫宗俊が中御門を称する。子宗忠は『中右記』の著者として名高い。室町時代にいたり松木氏を称した。

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世界大百科事典(旧版)内の中御門家の言及

【巷所】より

…これまで巷所を禁止する立場にあった京職が巷所の本所となってその存在を保証したのである。右京では右京職(中御門家)が,左京では左京職(坊城家)がそれぞれ巷所の本所となっている。これらの巷所を地域的にみると,右京や左京南部の巷所は土地が低湿であったため,田畠や藺(い)田として利用される場合が多い。…

※「中御門家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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