中村庄(読み)なかむらのしよう

日本歴史地名大系 「中村庄」の解説

中村庄
なかむらのしよう

山直やまだい郷内に存在した奈良春日社領庄園。現岸和田市山直中やまだいなか町一帯に比定される。文永九年(一二七二)九月、奈良興福寺衆徒の沙汰で春日神人が和泉国中村庄へ下されたとある春日社記録「中臣祐賢記」の記事が初見(同月二四日条・二七日条)。成立年代は不明であるが、承久(一二一九―二二)から天福(一二三三―三四)の頃実在した本領主聖俊が春日社領として寄進したとされ、その証文のなかに後高倉院庁下文があったから(弘安二年七月日「珍姉子申状」兼仲卿記裏文書・正安元年七月二八日「沙弥尊正和与状」久米田寺文書)、当庄の成立は後高倉院政期(承久三年七月―貞応二年五月)の頃ではないかとみられる。春日社領中村庄の庄官・百姓らは、神人として談義供料・御供米を上納する責任を負った(欠年四月五日「権神主大中臣経清請文案」春日大社文書)。また熊野詣の沿道にあった当庄は、庄役として院の熊野御幸米を課せられた。弘安元年(一二七八)一一月、亀山上皇は院宣を下して、春日社領和泉国山直中村庄などに先例に任せて熊野御幸米を進済させるように命じている(「中臣祐賢記」同年一二月二三日条)


中村庄
なかむらのしよう

真岡市南西部、旧中村地区の八木岡やぎおか庄を除く五行ごぎよう川の西岸鬼怒川との間の洪積台地宝積寺ほうしやくじ段丘上に展開した庄園。ただ、現在真岡市と河内かわち上三川かみのかわ町の境界となっている鬼怒川は、古くは上三川町三本木さんぼんぎの西を流れていたと思われ、三本木は中村庄の鎮守である中村八幡宮の氏子圏となっていたといわれているから、三本木も中村庄内に含まれていたと推測される。当庄の開発領主・寄進主体、あるいは成立事情などは不詳である。当庄の史料上の初見は「吾妻鏡」文治四年(一一八八)三月一七日条で「一、下野国 中泉・中村・塩谷等庄事」と記されている。建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録写(近衛家文書)では、当庄は奈良興福寺一乗院前大僧正実信(近衛兼経の義父)の管理下となっている。


中村庄
なかむらのしよう

古代の石川郡中村郷(和名抄)に成立したとみられる庄園で、現松任市の旧市街地(近世の松任町)およびなり町・村井むらい町・長島ながしま町などを含んでいたと推定される。嘉元三年(一三〇五)六月五日、中村庄雑掌公綱が訴えた当庄地頭らの検注妨害に関して「安(田カ)保地頭則時」・倉光くらみつ保地頭光顕・本郷吉田ほんごうよしだ保地頭代某・得丸とくまる保地頭代信親らが参洛を命ぜられ、了承している(「沙弥某請文」讃岐弥谷寺蔵秘密対法集下裏文書)。貞和三年(一三四七)七月日の東福寺領文書目録(東福寺文書)に「加賀国中村并田保」とあり、「一通正、公綱請文」とみえるので、鎌倉末期から京都東福寺領であったものと考えられるが、延徳二年(一四九〇)九月三日の東福寺領目録(同文書)には記載がない。


中村庄
なかむらのしよう

興福寺寺務領の進官庄荘園。同寺三目代の一の会所目代が納所となっており、春日若宮の祭礼や十二大会の料所。天文一九年(一五五〇)の「若宮祭礼并十二大会料所十市郷、進官庄々事」(京都大学蔵一乗院文書)に「中村庄、近年六斗十六合小公事料在之、三斗、去年三斗上、同一斗三升小舛上」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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