平安末期から南北朝期にかけて、戦乱の際にとくに指定されて兵粮米徴収の対象となった荘園(しょうえん)、所領のこと。律令(りつりょう)制下で、東北地方経営の遠征軍のため、東北、関東、北陸、東海などの諸国が指定されて「軍粮(ぐんろう)」を供給したのは、その先例といえる。その給源は主として各国庫の正税(しょうぜい)であったが、その結果、一般農民への収奪を強めた。源平争乱に際し、1180年(治承4)12月、平氏が院宣(いんぜん)を請うて、その知行国(ちぎょうこく)たる能登(のと)、但馬(たじま)、紀伊、佐渡に新たに「兵乱米(へいらんまい)」を徴した例があり、鎌倉幕府も1185年(文治1)守護・地頭設置に際して兵粮米反別五升を課した。また承久(じょうきゅう)の乱、蒙古(もうこ)襲来合戦のときにも臨時に設置している。しかしもっとも一般化したのは、南北朝内乱が始まるとともに行われた兵粮料所で、以前のように朝廷からの承認を得ずに、各国守護が軍費調達、恩賞給与を口実として濫設した。そのため配下の武士、領主層の荘園、公領の侵略を促進させることになり、やがて室町幕府による半済(はんぜい)法公布の一契機となった。
[島田次郎]
『宮川満著『荘園制の解体』(『岩波講座 日本歴史7 中世3』所収・1963・岩波書店)』▽『小川信著『南北朝内乱』(『岩波講座 日本歴史6 中世2』所収・1975・岩波書店)』
南北朝時代に幕府が軍勢発向諸国の本所領年貢を,1年を限って兵粮米にあてるよう指定した所領。年貢の半分をあてる場合が多いが,3分の1の場合もあった。南朝側の朝用分と対応した政策で,歴史的には,治承・寿永の内乱期の兵粮米を背景としたものである。1352年(正平7・文和1)7月,幕府は近江,美濃,尾張3ヵ国の本所領年貢の半分を兵粮料所として配下の軍勢に預け置くよう守護に命じ,翌8月には伊勢,志摩,伊賀,和泉,河内の5ヵ国を加えて対象国を拡大していった。当初より本所側へ半分を渡すよう指示したにもかかわらず,給人の中にはこれを実行しない者もおり,この8月令においては年貢ではなく,下地(したじ)折中の方向も打ち出されている。さらに半済(はんぜい)の用法もみえ,寺社一円領も特別視された。軍勢発向諸国という限定的一時的政策は,55年,57年(正平12・延文2),68年(正平23・応安1)の半済令へと継承され,恒常的半済政策として定着していった。こうして一般本所領の半分は,合法的に武家領化していったのである。
執筆者:田沼 睦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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南北朝期に室町幕府が兵粮米にあてるよう指定した土地。幕府が関与しえなかった寺社や貴族の荘園を対象とした。1352年(文和元・正平7)幕府は近江・美濃・尾張3カ国に,本所年貢の半分を兵粮料所として軍勢に預ける半済(はんぜい)を実施し,翌年,伊勢・伊賀・志摩・和泉・河内5カ国を加えた。はじめは1年の期限つきだったが,武家は半済を口実に,下地(したじ)の折半をとる場合もあって兵粮料所が常態化し,実質的な武家領となった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…(2)南北朝~室町時代になると幕府の土地政策の一つとして制度化された半済が現れる。それは南北朝内乱期に,国衙領,本所領の年貢半分を軍勢の兵粮料所(ひようろうりようしよ)として武士に与えたことから発生した制度で,内乱終了後も継承され恒常化した。観応の擾乱(じようらん)の終わった1352年(正平7∥文和1)7月,幕府は内乱の激しく戦われた近江,美濃,尾張3ヵ国の本所領年貢の半分を兵粮料所として割分し,1年間を限って軍勢に預け置くよう守護に命じた。…
※「兵粮料所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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