コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

中江丑吉 ナカエウシキチ

デジタル大辞泉の解説

なかえ‐うしきち【中江丑吉】

[1889~1942]中国学者。大阪の生まれ。兆民の長男。北京に在住約30年。中国古代思想史などを研究。著「中国古代政治思想」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

百科事典マイペディアの解説

中江丑吉【なかえうしきち】

在野の中国古代思想研究者。大阪出身。中江兆民の長男。1914年東京帝国大学卒業後,袁世凱顧問の有賀長雄(あるがながお)の秘書として中国に渡り,北京で生涯を送る。

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

中江丑吉 なかえ-うしきち

1889-1942 大正-昭和時代前期の中国学者。
明治22年8月14日生まれ。中江兆民の長男。大正3年袁世凱(えん-せいがい)の顧問有賀長雄の秘書として中国にわたる。北京に永住し中国思想史を研究。市井の生活者としての立場から時代を洞察し,軍国主義日本の崩壊を予見した。昭和17年8月3日死去。54歳。大阪出身。東京帝大卒。著作に「中国古代政治思想」。
【格言など】無名より無名に没入する外なし。然しメンシュハイト(人類)の力を達識せる事は何人にも譲らず(死の床での記)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典 第2版の解説

なかえうしきち【中江丑吉】

1889‐1942(明治22‐昭和17)
中江兆民の長男として大阪に生まれる。1914年東京帝国大学卒業後,袁世凱の顧問有賀長雄の助手として中国に渡り,その後死の直前までの約30年間を定職をもたずに北京で過ごす。1919年五・四運動のときには,親日的売国奴として攻撃された曹汝霖を助けた。この間《資本論》など社会科学書を精読しつつ中国古代史研究に従事。片山潜市川正一らをかくまったり,鈴江言一の研究を援助したりした。日中戦争の間にも軍部に迎合せず,社会科学的現状分析によって日本の敗北を予見していた。

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について 情報

大辞林 第三版の解説

なかえうしきち【中江丑吉】

1889~1942) 中国学者。大阪生まれ。兆民の長男。東大卒。北京在住約30年、中国政治思想史などを研究。著「中国古代政治思想」

出典 三省堂大辞林 第三版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

中江丑吉
なかえうしきち
(1889―1942)

大正・昭和期の中国学者、思想家。中江兆民の長男。東京帝国大学法科大学卒業後、1914年(大正3)袁世凱(えんせいがい)の顧問有賀長雄(ありがながお)の秘書として北京(ペキン)に赴き、永住した。19年の五・四運動の際、旧知の曹汝霖(そうじょりん)の命を救ったことは有名。このころより中国古代思想史の研究に傾注し、その研究は西園寺公望(さいおんじきんもち)や満鉄の援助を受けて進められたが、他方カント、ヘーゲル、マルクスを精読し、潜行中の片山潜や佐野学(まなぶ)らを助けた。中国革命の協力者鈴江言一(げんいち)も中江の薫陶を受けている。日中・太平洋戦争中、近衛文麿(このえふみまろ)首相や多田駿(しゅん)支那(しな)方面軍司令官らの招請を断り、市井の一生活者としての立場を固守し、日独の敗北を予言していたという。厳格な科学的合理主義とヒューマニスティックな批判的精神はまさしく兆民を継ぐものであった。死後に著書『中国古代政治思想』(1950)や、『中江丑吉書簡集』(1964)などが出ている。[和田 守]
『阪谷芳直・鈴木正編『中江丑吉の人間像』(1970・風媒社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

中江丑吉の関連キーワード鈴江 言一8月14日中江 兆民西園寺公望中江 丑吉鈴木正

今日のキーワード

あおり運転

危険運転の一種で、前方を走行する車両に対する嫌がらせ行為。車間距離を極端に詰めて道を譲るように強要する、猛スピードで追い回す、ハイビームやパッシング、並走しての幅寄せなどで威嚇する、といった行為が該当...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android