鈴江 言一
スズエ ゲンイチ
昭和期の中国研究者,社会運動家
- 生年
- 明治27(1894)年12月31日
- 没年
- 昭和20(1945)年3月15日
- 出生地
- 島根県飯石郡
- 別名
- 筆名=王 子言,王 枢之,王 乃文
- 学歴〔年〕
- 明治大学別科中退
- 経歴
- 北京の邦字紙「新支那」の記者を経て大正10年国際通信社北京支局記者となり、中国の多くの革命家や中江丑吉と親交。ついで満鉄北京公所の研究生となり、「改造」などに中国問題を発表する。昭和9年外務省文化事業部の研究生、12年満鉄嘱託となったが17年、治安維持法違反容疑で関東軍憲兵隊に逮捕され、ハルピンに送られ、翌年釈放された。病気療法のため帰国後、まもなく死去。著書に「支那革命の階級対立」「孫文伝」などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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鈴江言一 (すずえげんいち)
生没年:1894-1945(明治27-昭和20)
中国国民革命にみずからもかかわった革命史研究者。島根県出身。米騒動に関係して明治大学に在学できなくなり,1919年五・四運動最中の北京に渡り《新支那》紙等で時事を論じた。やがて蘇兆徴,A.スメドレーらと交わり,国民革命の高揚した27年には革命の都武漢に赴いたが,31年国共分裂後,九死に一生を得て北京に帰った。その後は中江丑吉(うしきち)に師事し一転して学究生活に専念。みずからの体験と収集資料を生かして《支那無産階級運動史》(1929,のち《中国解放闘争史》と改題),《支那革命の階級対立》(1930),王枢之の筆名による《孫文伝》(1931)などの著作を残した。
執筆者:古厩 忠夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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鈴江言一
すずえげんいち
(1894―1945)
昭和期の社会運動家、中国研究者。ペンネームに王子言、王枢之など。島根県の衆議院議員の家に生まれたが、家業の破産により苦学。東京の田坂法律事務所の書生となり明治大学別科に学ぶが中退。1919年(大正8)北京(ペキン)の邦字紙『新支那(しな)』の記者、21年国際通信社北京支局記者となる。このころより中国の革命家グループと交わり、中江丑吉(うしきち)を識(し)る。満鉄調査部、外務省対支文化事業部の研究生となり、『支那無産運動史』(1929)、『支那革命の階級対立』(1930)、『孫文伝』(1931)などを著した。27年(昭和2)武漢の汎(はん)太平洋労働会議に参加、コミンテルンの使者として日本の左翼運動と連絡をとり、中国の革命運動にも密接なかかわりをもった。42年治安維持法違反容疑で逮捕され、まもなく釈放されたが、昭和20年結核のため死去した。
[和田 守]
『衛藤瀋吉・許淑真著『鈴江言一伝』(1984・東京大学出版会)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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鈴江言一【すずえげんいち】
日本の中国革命史家。島根県生れ。若くして多くの職を遍歴。1918年の米騒動で官権の追捕にあい明大を中退して中国へ渡り,国際通信社の北京支局員となる。中江丑吉との出会いをへて,北伐が始まると武漢地区に潜入,その経験をもとに1929年《中国無産階級運動史》,1931年《孫文伝》(王枢之の筆名)を発表し,中国革命を貫く精神を解明。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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鈴江言一 すずえ-げんいち
1894-1945 大正-昭和時代前期の社会運動家,中国研究者。
明治27年12月31日生まれ。大正8年中国にわたる。中国共産党に入党し,革命運動に協力。のち中江丑吉(うしきち)のもとで研究につとめ,「中国無産階級運動史」「孫文伝」などをあらわす。昭和20年3月15日死去。52歳。島根県出身。明大中退。筆名は王子言,王枢之。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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鈴江 言一 (すずえ げんいち)
生年月日:1894年12月31日
昭和時代の社会運動家;中国研究者
1945年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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