日本歴史地名大系 「串村」の解説 串村くしむら 石川県:小松市旧能美郡地区串村[現在地名]小松市串町・青路町(あおじちよう)・野立町(のだちまち)西の柴山(しばやま)潟、東の木場(きば)潟、北の今江(いまえ)潟に囲まれ、中央を北陸街道が通る。北の今江村との間に猿(さる)ヶ馬場(ばば)村があった。村北部の北陸街道沿いが万治三年(一六六〇)串茶屋(くしちやや)村として独立している。本村と出村に分れ、出村は古くは蟻出(ありで)村といい、蟻が無数に出たため現在地に移ったと伝える。天正五年(一五七七)と推定される一二月八日の堀五兵衛宛本願寺内衆下間頼廉感状(北徴遺文)に「去比串村夜討之刻」とあり、戦功を賞している。この合戦は「信長公記」に織田信長方の柴田勝家が同年八月以降加賀へ乱入し、「小松村・本折村・阿多賀・富樫の所々」を焼払ったという合戦であろう。 串村くしむら 山口県:佐波郡徳地町串村[現在地名]徳地町大字串土田(つちだ)ヶ岳の南東麓に位置し、北東は鯖河内(さばごうち)、南東は夏切(なつぎり)(現新南陽市)、南は上(かみ)、北西は深谷(ふかだに)、南西は山畑(やまはた)・島地(しまじ)の各村と接する。山村で、村内を山の奥(やまのおく)川・西(にし)ヶ浴(えき)川が流れ、串川となって南流、その両岸に平地が広がる。萩藩領で徳地宰判に属した。近世初期には中徳地(なかとくじ)の一部であったと思われ、元禄一二年(一六九九)の郷帳に中徳地枝郷として串村がみえる。 串村くしむら 愛媛県:伊予郡双海町串村[現在地名]双海町串伊予灘に面し、東は大久保(おおくぼ)村、西と南は今坊(こんぼう)村・戒(かい)ノ川(かわ)村(現喜多郡長浜町)、田所(たどころ)村(現大洲市)に接する。浮穴(うけな)郡湯並(ゆなみ)郷に属し、その西端に位置する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「串村 日損所、茅山有」、村高四五六石七斗八升一合、うち田二二二石一升三合、畠二三四石七斗六升八合と記す。元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」に、村特産は「米上・大豆下・胡麻上・薪・茗・盆石・松葉長浜塩屋ヘウル・豊田の鰺」とあり、土地については「よろしからずと雖共、高に応じては人多し、貧家も無し」、また「村の長さ二里、小石多し」ともある。 串村くしむら 佐賀県:東松浦郡鎮西町串村[現在地名]鎮西町大字串現鎮西町と玄海町との間にある外津浦(ほかわづうら)湾に面する。海岸は絶壁が多く、全体が丘陵地である。有浦家文書の寺沢志摩守の知行状に「串村之内百七拾石令扶助候畢全可有知行候以執達如件。慶長九年七月廿六日 志摩守広高(花押) 有浦宗珊」とあり、慶長絵図にも村名がみえる。 串村くしむら 和歌山県:西牟婁郡大塔村串村[現在地名]大塔村串日置(ひき)川の支流前(まえ)ノ川に沿う山間集落で、北は面河(めんがわ)村、南は大瀬(おおせ)村(現日置川町)、東は九川(くがわ)村、西は谷野口(たにのくち)村。「続風土記」に「串は越の義にて、九川村或は谷野口村等へ越ゆる坂あるより起れるなるへし」と記される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by