日本歴史地名大系 「丹生村」の解説 丹生村にゆうむら 三重県:多気郡勢和村丹生村[現在地名]勢和村丹生古来水銀の産出地として知られる。北は蛇行する櫛田(くしだ)川沿いの津留(つる)村・上牧(かみまき)村に通じ、東は長谷(はせ)村(以上現多気町)、南は色太(しきふと)村に接している。「続日本紀」文武天皇二年九月条に「伊勢国献朱沙・雄黄」の記事があり、和銅六年(七一三)五月条に「令献伊勢水銀」とあるのは、丹生水銀に関する最も早い例である。「延喜式」神名帳には飯高郡丹生神社・丹生中神社の社名がみえ、「延喜式」によれば内蔵寮に「伊勢国租税水銀四百斤」、民部省に「交易雑物伊勢国水銀四百斤」、典薬寮に「年料雑物伊勢国水銀十八斤」を貢納していたことがわかる。 丹生村にゆうむら 山形県:尾花沢市丹生村[現在地名]尾花沢市丹生荻袋(おぎのふくろ)村の西、丹生川右岸山際に位置し、南は正厳(しようごん)村。西方に枝郷の安久戸(あくと)がある。地内には縄文時代中期―晩期の中野(なかの)遺跡、延沢遠江守の隠居所と伝える中世の館跡がある。地名は村の周辺にみられる赤土、「丹生」に由来するとの説がある。元和八年(一六二二)山形藩領、寛永一三年(一六三六)幕府領となり、安政二年(一八五五)から松前藩預地。正保郷帳では田方二千一二五石余・畑方一〇九石余。宝暦一一年(一七六一)の御巡見様御案内覚帳(二藤部文書)によれば高二千二九六石余、家数一三四・人数六〇二、馬三八。 丹生村にうむら 和歌山県:有田郡金屋町丹生村[現在地名]金屋町丹生糸野(いとの)村の西北に位置し、西は出(いで)村(現吉備町)。南に有田川が流れ、川南に一部当村域がある。「続風土記」に「丹生は即天野祝文に夏瀬丹生とある是なり、丹生神鎮座ありしより其名起り」とある。出の田殿丹生(たどのにう)神社の主神は丹生都比売神であり、その周辺の村々は丹生神領に入り、幾つかの丹生神が奉祀されていた。古代には吉備(きび)郷(和名抄)に含まれた。 丹生村にうむら 千葉県:安房郡富浦町丹生村[現在地名]富浦町丹生深名(ふかな)村の北、岡本(おかもと)川の支川丹生川の中流域に位置し、西は南無谷(なむや)村など。かつてはニブとよんだ(明治一三年郡区町村名調)。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高二三九石余、うち田方一四六石余。里見氏給人領。里見氏改易後は幕府領となり、元和四年(一六一八)検地が行われた(同年九月「検地帳写」加藤家文書)。 丹生村にうむら 和歌山県:日高郡印南町丹生村[現在地名]印南町丹生真妻(まづま)山の南方、切目(きりめ)川の左岸にある。東は崎(さき)ノ原(はら)村、南は樮川(ほくそがわ)村。「続風土記」に「丹生は旧此辺の大名なり」と記す。慶長検地高目録には崎ノ原とともに「丹生崎原村」とあり、村高一七五石余、小物成一・七三二石。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」には丹生村とみえ、「続風土記」は崎ノ原村との分村は慶安(一六四八―五二)頃という。「日高鑑」によれば田畑一〇町九反余で高一一四石余、家数二二で内訳は本役六・半役五・無役九・庄屋一など、人数七二、牛六、馬三、鉄砲二。「続風土記」には村高一二六石余、家数三八、人数一六一とあり、前掲「日高鑑」に比して大幅な増加を示している。 丹生村にうむら 奈良県:吉野郡下市町丹生村[現在地名]下市町大字丹生丹生川流域、長谷(ながたに)村の東に立地。丹生という地名は辰沙出土地あるいは赤色土壌地帯をさす。当村小字クサゴヤ・柿迫(かきざこ)付近には鉱脈が認められ、明治初年には県庁に銅鉱試掘願が提出されている。丹生郷のうち。慶長郷帳では村高一三一・五一四石、幕府領(代官大久保長安)。のち延宝検地により村高は一九一・一四三石となった。延宝七年(一六七九)の大和国吉野郡丹生村検地帳(丹生区有文書)によると、反合一六町五反八畝三歩で、楮畑・漆畑・茶畑の記載がある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by