久万山
くまやま
松山市の中心部から南へ二七キロの三坂峠(七二〇メートル)を越えて達する久万高原一帯の称呼。久万郷ともいう。現在の行政区画で久万町・面河村・美川村・柳谷村の一町三村を含み、面積は上浮穴郡の約八〇パーセントを占める。江戸時代は松山藩領で「久万山六千石の地」と称し、二六村からなっていたが、この中には三坂峠北側の久谷村・窪野村(現松山市)が含まれ、二名村・父野川村・露峰村・野尻村の一部(現久万町)が含まれず大洲藩領になっていた。これは仁淀川流域を久万山とよぶ本来の姿を、藩政の便宜から若干ゆがめたものである。後者が大洲藩領に入れられたのは、天正―文禄(一五七三―九六)の頃の支配者戸田勝隆が小田郷で家臣に六千石を与えた時、その不足分一千一一三石を久万山から補った伝統によるものである。寛保元年(一七四一)頃成立の「久万山小手鑑」に、
<資料は省略されています>
とあり、そのため野尻村の松山藩領は一六七石となったことを記し、「先規者、二名、露峰、父之川も久万山之内ニ而」と記している。なお「久万山、荏原郷之内与申候、浮穴郡ニ而郷之初ハ荏原にて候」とある。久万山は「和名抄」の浮穴郡荏原郷に続く山分が開発されたものというのである。
「久万山三坂」というように久万山を口坂・北坂・下坂と三区分する(坂を番とも書く)呼方がある。口坂は三坂峠からの入口に近い久万町村(現久万町)近郷、北坂は石鎚山麓の大味川村(現面河村)近郷、下坂は土佐国へ傾斜する面河川沿いの日野浦村(現美川村)近郷をさす。
久万山・小田郷の庄屋家はいずれも大除城(現久万町)城主大野家の一族、または配下の枝城主の子孫と称していた。また彼らは絶家を防ぐために庄屋間で養子縁組をし、親戚関係をつくっていた。「古今見聞録」(入野村庄屋文書)によると、加藤嘉明の頃久万山六千石の地は老臣佃十成の知行所であったが、寛永三年(一六二六)二月に庄屋どもは大川村(現美川村)土居三郎右衛門・日野浦村船草治郎右衛門を代表として、嘉明にじきじきに十成の圧政を訴え、支配者の更迭を願っている。理由として西明神・東明神・菅生・畑野川(現久万町)、大川村などで百姓を責めて財をなし、松山屋敷に日々人夫を召集し、とくに年貢過重で困窮するとしている。結果、十成の所領は取上げその子三郎兵衛が相続することになり、土居・船草両人は不服を申し立てたが家老堀主水・足立新助がこのことを含み苛政を行うようなことはさせぬという証文を与え、両人はようやく引き下がったとある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の久万山の言及
【美川[村]】より
…この岩屋は隣接する久万町の古岩屋とともに国指定名勝。久万高原を中心に当村域も含む一帯は,かつて久万郷,久万山とよばれた。水田に乏しく,茶を産し紙すきが行われていたが,1741年(寛保1)松山藩の紙方新法に抗して農民3000人が逃散するという久万山騒動が起こっている。…
※「久万山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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