久住村(読み)くじゆうむら

日本歴史地名大系 「久住村」の解説

久住村
くじゆうむら

[現在地名]久住町久住

現久住町の南東部、久住山南東麓に位置。中世の直入郷内久住名の遺称地。肥後街道、竹田・日田往還が交差する交通の要衝で、慶長六年(一六〇一)豊後領を得た加藤清正が、肥後街道の整備の一として南山なんざん城の城下町であった白丹しらに町の人家を当地の肥後街道沿いに移転させて宿場とした。以後街道沿いに町場が発展し、久住町と俗称された。慶長豊後国絵図に九重くじゆう村とみえ高一千三六九石余。慶長六年の中川秀成知行方目録案(中川家文書)には九重郷とみえ高九三四石余。寛永一一年(一六三四)の熊本藩豊後国郷帳では高一千三六九石余。正保郷帳では田高七四〇石余・畑高六二九石余、茅山・柴山・新田がある。元禄見稲簿では久住村内の桐迫きりさこ阿蔵野あぞうの山中やまなかの三ヵ村を含めて同高。


久住村
くすみむら

[現在地名]大宮町字久住

延利のぶとし村の北西高尾たかお山と木積きづみ山とに挟まれた三重みえ谷の奥に位置し、この一帯竹野川の源流となる。現与謝郡岩滝いわたき町と現竹野郡弥栄やさか町方面を結ぶ間人たいざ街道(宮津街道)が走る。

慶長検地郷村帳には「明田村之内久住村」とあって高付されず、明田あけだ村の枝村であったが、延宝三年郷村帳では「久住村」高三五二・七石とある。延宝九年(一六八一)の延高で四九一石余となった(天和元年宮津領村高帳)


久住村
くじゆうむら

[現在地名]川内市久住町

樋脇ひわきなか村の東にあり、東は倉野くらの(現樋脇町)、北は蛇行しながら西へ流れる川内川を隔てて南瀬のうぜ(現東郷町)。中世には入来いりき院のうちで、建徳二年(一三七一)一〇月一五日の渋谷重門譲状(入来院文書)には、子息虎五郎丸(重頼)へ譲与された所領のうちに「久中村」とみえる。以後重頼から重長へ(応永一三年一一月一五日「渋谷重頼譲状」同文書)、重長から重茂へ(応永三〇年八月一六日「渋谷重長譲状」同文書)、さらに改めて重長から孫重豊へと入来院(渋谷)氏惣領に相伝された(嘉吉元年二月二七日「渋谷重長譲状」同文書)


久住村
くすみむら

[現在地名]日野町久住

ほぼ南東流して日野川に合流する天郷てんごう川最上流部に開けた村。同川を下ると黒坂くろさか村。享保元年(一七一六)郷村高辻帳は「クズミ」と訓ずる。元禄一六年(一七〇三)開村という伝承があるが、正保国絵図に村名がみえる。拝領高は一一一石余、本免は四ツ。福田氏の給地であった(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高一五七石余、竈数三二。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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