二階堂村(読み)にかいどうむら

日本歴史地名大系 「二階堂村」の解説

二階堂村
にかいどうむら

[現在地名]武生市二階堂町

天王てんのう川上流部、山干飯やまかれい盆地一帯を見渡す西部山麓に位置する。中世は山干飯保内に含まれ、近世は山干飯郷の中心的集落として発達した。村域東部、山干飯道の北側の丘に古墳があり、山麓からは須恵器の壺や和同開珎など古銭も発見された。また山干飯郷の惣社白山神社や越前押領使斎藤吉信の城跡もあり、佃田つくだ殿楽坂でんがくざか仮屋馬場かりやばんば願寄がんき巫山みこやま牛首ごうず観音山かんのんやま柳町やなぎまち桜町さくらまち牛追門うしおうもんなどの特異な字名も残る。


二階堂村
にかいどうむら

[現在地名]鎌倉市二階堂・西御門にしみかど二丁目

源頼朝が幕府を開いた大倉おおくらの東方、なめり川の支流のつくった谷間に所在し、南方六浦むつら道が通過する。東は十二所じゆうにそ村、南は浄明寺じようみようじ村、西は西御門村雪下ゆきのした村、北は今泉いまいずみ村に接する。源頼朝の建立した永福ようふく寺の二階堂から、その名が起こったという。

吾妻鏡」元仁元年(一二二四)一月四日条に、北条政子が方違のために藤原行村の二階堂の家に赴こうとしたとみえる。


二階堂村
にかいどうむら

[現在地名]茨木市星見ほしみ町・新堂しんどう一―三丁目・五十鈴いすず町・桑田くわた町・大同だいどう町・平田台ひらただい平田ひらた一―二丁目

東は島上しまかみ西面さいめ(現高槻市)、北は馬場ばば村に接し、集落の東を安威あい川が流れる平坦な地形である。中世には溝杭みぞくい庄に含まれ、馬場村との境付近には安威川の水を引く新堂井が在地武士溝杭氏によって築かれ、同氏がその管理権を掌握していた(嘉吉元年一二月日「溝杭信幸譲状」石清水文書)。江戸時代前期には溝杭村の五小村の一。元和初年の摂津一国高御改帳には「ニかい」とみえ、「寛文朱印留」や天和三年(一六八三)頃の摂津国御料私領村高帳・天保郷帳にも「二階村」とある。


二階堂村
にかいどうむら

[現在地名]燕市二階堂

又新またしん村の東に連なる。天正年間(一五七三―九二)小沢平右衛門尉の開発という(皇国地誌)。元和六年(一六二〇)の三条御引渡郷村帳(幸田重寛氏文書)に高一〇一石一斗余とある。同九年幕府領となり、正保国絵図は一五九石余。慶安二年(一六四九)村上藩領となり、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳は一三八石一斗余、明和二年(一七六五)の石瀬代官所村々高辻帳(北条一也氏蔵)は二一五石五斗で、以後幕末まで変わらない。


二階堂村
にかいどうむら

[現在地名]木更津市戸国とくに

下内橋げないはし村の南西小櫃おびつ川東岸に位置する。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高八二石。元禄郷帳では三九石余。天保郷帳では四九石余。寛文四年(一六六四)以降の領主変遷下内橋村に同じ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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