日本大百科全書(ニッポニカ) 「二階堂氏」の意味・わかりやすい解説
二階堂氏
にかいどううじ
藤原氏南家、武智麻呂(むちまろ)の子乙麻呂(おとまろ)流工藤(くどう)氏より分かれる。鎌倉・室町幕府の事務職員の家。伊豆の豪族狩野(かの)氏と同族であるが、行政(ゆきまさ)のとき、おそらく京都から鎌倉に下向し源頼朝(みなもとのよりとも)に従ったものと思われる。鎌倉の二階堂に住し、地名が苗字(みょうじ)となった。年代記などによれば、行政が幕府の政所執事(まんどころしつじ)となってのち、子孫も執事職に就任、行政の孫行盛(ゆきもり)以後は、当職を同氏が独占した。また幕府や六波羅探題(ろくはらたんだい)の評定衆(ひょうじょうしゅう)、引付衆(ひきつけしゅう)などの要職につく者が多く、一族は幕閣に繁栄した。室町幕府になってからも、評定衆の家格を保ち、初期には政所執事となり、また関東統治機関であった鎌倉府(関東府)の政所執事職にも同氏が就任した。このほか、陸奥(むつ)の須賀川(すかがわ)の二階堂氏は、戦国大名として活躍したが、1589年(天正17)伊達政宗(だてまさむね)に滅ぼされた。繁栄を誇った二階堂氏も江戸時代には衰えた。行政の孫元行(もとゆき)の子孫で、のちに薩摩(さつま)の島津氏の家臣となった一流の古文書が現存している。
[百瀬今朝雄]