五分一村(読み)ごぶいちむら

日本歴史地名大系 「五分一村」の解説

五分一村
ごぶいちむら

[現在地名]上三川町五分一

川左岸の低地台地に位置する。東寄りを途中で赤沢あかさ川を合流した無名瀬むなせ川が蛇行しながら南流し、南西部で田川に合流する。東は村。明治六年(一八七三)の当村と喜川田きかわだ(木川田)村の合併願(野口八郎平文書)によると、往古は両村は一村で五分一村と称し、元禄九年(一六九六)助郷制の開始のとき喜川田村を分村したというが疑わしい。両村の境界は不明。近世初めは烏山藩領、元和八年(一六二二)幕府領となる。


五分一村
ごぶいちむら

[現在地名]喜多方市上三宮町かみさんみやまち三谷みたに

譲屋ゆずりや村の北にあり、東はにごり川を隔てて鷲田わしだ(現熱塩加納村)、西は高森たかもり山を隔てて賢谷かしこだに(現山都町)。同村との間は五分一峠越の道が通じていた。地内の曹洞宗大用たいよう寺は譲屋山と号していることなどから、古くは譲屋村と一村で、寛永(一六二四―四四)の初めまでに同村から分村したと思われる(新編会津風土記)。五目組に属した。寛文六年(一六六六)の「会津風土記」に村名がみえる。享保一六年(一七三一)の五目組村々書上(福島県史)によると高五一四石余、反別は田方三五町七反余・畑方一八町五反余、家数四五(うち鍛冶一)・人数二〇七、馬二〇・御小荷駄一・牛一を飼育し、漆木役二千六八一本、山役金二分・同銀一三匁二分二厘、鍛冶役銭(半役分)三八〇文などが課せられていた。


五分一村
ごぶいちむら

[現在地名]中井町くち

東境くず川が流れ、南は淘綾ゆるぎ一色いつしき(現中郡二宮町)、西は久所ぐぞ村、北と西は井口いのくち村と接する。大住おおすみ郡に属し、足柄上郡・淘綾郡の境に位置する。小田原衆所領役帳に石巻下野守「五拾貫文 中郡土屋内五分一」とあり、古くは土屋つちや(現平塚市)内に含まれた。近世は初め幕府直轄領、寛永一〇年(一六三三)より旗本田沢領。


五分一村
ごぶいちむら

[現在地名]寺泊町五分一

北東は硲田はざまだ村、南は上桐かみぎり(現和島村)三島みしま丘陵の西斜面を後背地として島崎しまざき川の沖積平地に面した集落。正保国絵図に高四五八石余で幕府領。慶安二年(一六四九)村上藩領となり以後明治まで続く。貞享元年(一六八四)郷村高辻帳では高五三三石六斗余。旧高旧領取調帳では高五八四石余。文政七年(一八二四)の御案内帳(原田仁一郎家文書)では家数五〇。明治三一年(一八九八)当地の耕地内を通って北越鉄道が開通し、大正二年(一九一三)に桐原駅ができた。


五分一村
ごぶいちむら

[現在地名]水原町五分一

南は越御堂こしみどう村、西は灰塚はいづか村。正保国絵図に三六石余とあり、新発田藩領。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳には五分市村高三六石七斗余と記される。同七年と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)では岡方組の分田組に属し、家数四・人数一七とある。寛保二年(一七四二)堀越村明細帳(小見家文書)によれば、堀越ほりこし村・福田ふくだ村など一一村と入会組合を作って草刈場のくすさわを経営している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android