日本歴史地名大系 「三谷村」の解説
三谷村
みたにむら
三谷村
みたにむら
三谷村
みたにむら
三谷村
みつやむら
近世から明治一二年(一八七九)まで存続した村。三屋村・三家村・三ッ谷村などとも記した。
宝暦八年成立の「松前蝦夷聞書」では家数二七、八。天明年間の家数五〇弱・人数二三〇余(蝦夷拾遺)。
三谷村
みたにむら
三谷村
みたにむら
三谷村
みたにむら
三谷村
みやむら
三谷村
みたにむら
三谷村
みたにむら
文禄四年(一五九五)の大和国城上郡三谷村御検地帳写では一五八・五五石(荒高三・三一石)、反別一一町九反三畝二〇歩。慶長五年(一六〇〇)織田有楽(長益)領となり、元和七年(一六二一)幕府領(代官中坊時祐)に編入され、その間村高は増高の実施で二〇九・四八八石となる。
三谷村
みたにむら
三谷村
みたにむら
三谷村
みたにむら
三谷村
みだにむら
三谷村
みたにむら
三谷村
みたにむら
江戸時代は高野山行人領に属し、「続風土記」は村高二〇二石余、家数一四一、人数四九八、社寺として、
三谷村
みたにむら
三谷村
みやむら
三谷村
さんだにむら
西は
三谷村
みやむら
三谷村
みたにむら
三谷村
みたにむら
三谷村
みたにむら
三谷村
みたにむら
三谷村
みたにむら
三谷村
みたにむら
三谷村
みたにむら
三谷村
みたにむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報