五日町(読み)いつかまち

日本歴史地名大系 「五日町」の解説

五日町
いつかまち

[現在地名]鶴岡市本町ほんちよう一丁目・昭和町しようわまち

八間はちけん町の南にあり、下肴しもさかなとおり丁と直角に交差して東西に続く町人町。西端はうち川に架かる五日町橋(現千歳橋)を越え、郭内三の丸五日町口に至る。東は五日町かた町。最上氏時代の慶長八年(一六〇三)町割され、当初、のちの郭内馬場ばば町辺りにあった。酒井氏入部後の寛永元年(一六二四)郭内拡張に伴い東方の現在地へ移転したという(大泉掌故)町名山形城下の五日町にちなむとも、市立ての日にちなむともいわれる。延宝六年(一六七八)の城下絵図では五日町二二七間とある。三日みつか町との間の川端通にあった町奉行所は火災で数度焼失ののち、正徳三年(一七一三)元長泉寺もとちようせんじ屋敷へ移転した(川上記)

天和三年(一六八三)の町割は三町・当町横丁一町・当町裏小路一町・当町川端通二町一二間。家数一〇八、男四五七・女三三四(「鶴ヶ岡町割家数人数書上」鶏肋編)。元禄七年(一六九四)の人別改帳(川上記)では本屋数九二、男三九五・女三〇〇、名子家数二五、男一一四・女八六(宿借とも)


五日町
いつかまち

[現在地名]山形市五日町・幸町さいわいちよう若葉町わかばちよう上町うわまち一―三丁目

八日ようか町の西に延びる羽州街道の両側町。西は上町、北は三の丸堀、南は鉄砲てつぽう町。北部に古くから清水が湧出し、お清水すずという地名もある。泉を中心として集落が成立したと考えられる。最上氏時代城下絵図に五日町とみえる。正保年間(一六四四―四八)五日町村から出された地子銭免除願写(川合文書)があり、市日町が一集落に発達して村となったことを物語っている。元禄一〇年(一六九七)の屋敷家数等覚(山形故実録)にはすでに市が立っていないことが記される。上町境より八日町境までの長さ三町五間・幅四間、屋敷数八一軒半(うち無役一二軒)横町として上鉄砲町境まで長さ三〇間・幅二間半、石橋二。


五日町
いつかまち

[現在地名]小林市細野など

細野ほその村内にあった小林郷の野町の一。細野村の北東にあり、肥後街道に面し、長さ四町・幅一町(日向地誌)。年に五日ほどの大市が開かれることから、五日町と呼びならわしたといい(明治三年「小林誌」赤木家文書)五日市とも記される(三国名勝図会)。江戸時代には隣接する真方まがた村に小林郷の地頭仮屋が置かれたこともあって、商業地としての賑いは十日とおか町から当地へと移った。文政五年(一八二二)には十日町名頭で質屋と油屋を経営する上田家が五日町に移住し、一時期の休業期間を除き、幕末まで油屋を経営した。


五日町
いつかまち

[現在地名]人吉市五日町

球磨川を挟んで人吉城の北に位置する。東は七日なぬか町、西は九日ここのか町、北は二日にの町に接する。文禄三年(一五九四)近世城郭建設時に計画的に立てられた商人町の一つ。寛政元年(一七八九)の私領御巡見教令(相良家近世文書)によれば、「五日町弐町三拾五間、道幅四間弐尺下水道加へ、但屋敷数八拾九軒」とあり、借屋が一〇軒あり、町別当勘右衛門・問屋友平・塩商人岩切庄吉らがおり、町別当には恵比須田として田二反八畝余が与えられた。寛政四年の飢饉の際には最高二七五人分の米が用意されており(人吉市史)、人口もそれをやや上回る程度と考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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