細野村(読み)ほそのむら

日本歴史地名大系 「細野村」の解説

細野村
ほそのむら

[現在地名]小林市細野・本町ほんまち

夷守ひなもり岳の北東に位置し、現小林市の市街中心部およびその南西方を広く占める。南は夷守岳のさらに南西の霧島山の山頂に至るまで原野が続き、同山を境に南は大隅国、東は広原ひろわら(現高原町)つつみ村、西は南西方みなみにしかた村に接し、北は真方まがた村。夷守岳麓を北東方へ流下した熊迫くまさこ川・洗出あらいだし川などは辻の堂つじのどう川となって南東へと蛇行しながら流れる。北東部に五日いつか町、その南方洗出川北岸に十日とおか町の二ヵ所の野町がある。五日町から西へ肥後街道が通る。当村にはほその村・穂添之ほその村・穂襲ほその村などの異名があり、明治三年(一八七〇)の小林誌(赤木家文書)は「野方甚く広大なる処」からきたものであろうかとしている。慶長一八年(一六一三)四月二四日、一万田主膳正に「小林細野村之内」の「中薗之門」三〇石などが宛行われた(「比志嶋国貞外二名連署知行目録写」福島家文書)。明暦三年(一六五七)には郡奉行東郷重方一行により例竿が行われた(「日州諸外城引并例竿日帳」東郷家文書)。寛文四年(一六六四)の諸県郡村高辻帳、天保郷帳では表高六三二石余、ただし野町の十日町村は幕府への届出では別立てとされ、これらの郷帳類では表高一千五五三石余。また元禄国絵図では細野村・十日町村のほかに「十日町村之内細野村」を記す。当村の内高は「三州御治世要覧」では三千三三一石余、弘化二年(一八四五)の小林諸在高頭門附覚帳(大塚家文書)では高一千八一八石余(田高一千六四〇石余・畠高一七七石余)。慶応四年(一八六八)の小林万取調帳(上井家文書)と小林誌ではともに高三千三八六石余としているが、このなかには野町分(十日町・五日町)後河内うしろかわうち村分五六一石余も含まれている(小林誌)


細野村
ほそのむら

[現在地名]城端町細野

東は細谷ほそたに川を境に西明さいみよう村、西は火宮ひのみや川・別荘べつしよう川を境に蓑谷みのだに村に接し、南の山麓から北野きたの村へと起伏のある扇状地が細長く広がり、五箇山ごかやまへ通じる杉尾すぎお峠への登り口であった。杉尾峠は細野峠とよばれたこともある(「礪波郡分間絵図」・「三州測量図籍」高樹文庫)。延応元年(一二三九)誓願房心定が越中国細野で僧阿聖より立川流の教旨を受法したという(城端町史)。元和五年(一六一九)の家高新帳に「ほその」と記され蓑谷与に属し、役屋数七。


細野村
ほそのむら

[現在地名]額田町細光ほそみつ

集落はおと川左岸の河岸段丘上で西の牧平まきひら村寄りに立地。東は光久みつひさ村、西は牧平村・鹿勝川かがつかわ村、南は鳥川とつかわ村、北は男川で対岸の片寄かたよせ村と境。寛永一〇年(一六三三)はたけ(現渥美郡渥美町)陣屋の戸田氏経の知行所に編入した際に、牧平村を親村として分村独立。寛永郷帳は牧平村三八二石余のうち、戸田知行所分二四五石余に含まれる。

天和三年(一六八三)の戌年本麦覚樫野山領四か村(畠区有)の四ヵ村に牧平村はなく、樫野山かしのやま村・細野村・三久みつひさ村・滝尻たきじり村とある。


細野村
ほそのむら

[現在地名]安塚町細野

六夜むつよ(四一一・七メートル)の西麓にあり、北西に流れる細野川右岸に位置。集落は山腹を取巻くように細長くある。地内の字名にタテ・杉の立すぎのたて本明ほんみようなどのほか導寺どうじ寺導寺じどうじなど寺院にかかわる地名があり、袖山そでやま諏訪すわこし峯屋敷みねやしき御清水おしみず批把田びわたつぼくち・杉の立などの地には室町期の五輪塔が残る。東は吹切ふつきり峠を越えると大島おおしま(現大島村)、北は坊金ぼうがね村、北西は二ッ城ふたつちよを越えて安塚村。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「長慶寺分ほその村 下」とあり、本納一〇石七升・縄高一四石九斗六升八合、家八軒・三六人。正保国絵図では高四八石余。天和三年郷帳では高八七石一斗余、うち山高七石六斗四升二合・漆高四石一斗三升・青苧高一石八斗三升、反別田二町九反余・畑屋敷九町六反余・山林三六町三反余・青苧畑二反余、漆木四一三本。


細野村
ほそのむら

[現在地名]勝山市荒土あらど町〈さかい新道しんどう戸倉とぐら西にしはら・細野〉

大日だいにち(一三六八メートル)の西谷、さら川の上流に位置し、南は細野口ほそのくち村。村名は、天文八年(一五三九)一〇月一八日の平泉寺賢聖院々領所々目録(平泉寺文書)に「細野村之内成福屋敷」「細野村之内ホウノ木谷」などとみえる。

慶長五年(一六〇〇)から福井藩領、寛永元年(一六二四)勝山藩領、正保元年(一六四四)幕府領で福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府直轄地、元禄五年(一六九二)以降美濃国郡上藩領となった。


細野村
ほそのむら

[現在地名]土岐市鶴里町細野つるさとちようほその

柿野かきの村の東、肥田ひだ川沿い山間に細長く開ける。中央を中馬ちゆうま街道が北東から南西へ通り、その両側に集落がある。貞治五年(一三六六)八月三日の足利義詮御教書(土岐文書)妻木つまぎ郷内として細野村とみえ、文和四年(一三五五)一一月六日の土岐頼重の譲状に任せ、地頭職が土岐下野入道(頼高)に安堵された。永徳三年(一三八三)七月二五日にも頼高の地頭職領掌が認められ(「足利義満袖判下文」同文書)、以後土岐明智氏に伝領された。


細野村
ほそのむら

[現在地名]久慈市山根町やまねちよう 細野

端神はしかみ村の西に位置。永正五年(一五〇八)の糠部郡九箇部他馬焼印図(古今要覧稿)の「具しの部」に「ほそ田」とみえる。これは細野の誤記で(大日本地名辞書)、細野牧の故地とも考えられる。当地に伝わる焼印(大屋孝一郎蔵)は近世の山守が木材に押していたものといわれていたが、中世の産馬に押していたものであろう。にごり川とその支流に挟まれた八屋氏本家の裏山に細野館跡がある。


細野村
ほそのむら

[現在地名]浪岡町細野

正平津しようへいづ川上流にあり、北西下流は相沢あいざわ村、西は山越に本郷ほんごう村に接する。山間にあるため、かつて冬期には人馬の往来が絶えたという(南津軽郡町村誌)

貞享四年(一六八七)の検地帳に相沢村の支村として、村高一七四・九六三石、うち田方一〇町四反七畝一四歩、六六・九二石、畑方四六町六反一畝一七歩、一〇八・〇四三石とあり、権現堂地一反二四歩、八幡社地一畝一〇歩が記される。「平山日記」元禄三年(一六九〇)に畑野村とあるのが当村と思われ、浪岡組に属し、村位は下とある。享保一一年(一七二六)相沢村より独立した(「村名改称并新村創立調」八木橋文庫蔵)


細野村
ほそのむら

[現在地名]鴨川市細野

松尾寺まつおじ村の南西、加茂かも川の上流域に位置する。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高四〇九石余(うち田方二九六石余)、里見氏給人領。正保郷帳では高三五二石余、うち田方二七一石余・畑方八〇石余で、幕府領二一二石余・旗本内藤領一四〇石。元禄七年(一六九四)内藤氏は嗣子がなく収公される。元文村高帳では幕府領一四〇石・旗本向坂領二一二石余となっている。


細野村
ほそのむら

[現在地名]尾花沢市細野

延沢のべさわ村の南、朧気おぼろけ川の上流域に位置し、三方を山で囲まれた山間の村。元和八年(一六二二)山形藩領となり、寛永二〇年(一六四三)からは幕府領。寛永一三年の保科氏領知目録に村名がみえ、高七九一石余。延宝三年(一六七五)の検地では高六四八石余(最上記)。宝暦一一年(一七六一)の御巡見様御案内覚帳(二藤部文書)では家数一〇一・人数四九五。寛政元年(一七八九)村明細帳(柳橋文書)によれば家数一〇三・人数五二二、馬二四。小物成として草山年貢永三八九文・漆代永一八文・漆実代永一文などを上納。田畑は水損・旱損ともにうけやすい。城米の津出しは道程三里ほどの大石田おおいしだ河岸(現北村山郡大石田町)を利用する。


細野村
ほそのむら

[現在地名]君津市大戸見おおとみ

女食おなめし村の南、小櫃おびつ川左岸にあり、同川の支流の一つさん川に沿って展開する。村の北を南東ささ村からの道が北西蓮見はすみ村方向へ通じ、村の東で分岐してせき村および小櫃川を渡って切畑きりはた村・谷向たにむかい村方向に通じる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三九石。


細野村
ほそのむら

[現在地名]阿南市細野町

水井すい村の南西に位置し、北は那賀なか川を挟んで大井おおい村。慶長二年(一五九七)の分限帳に山田彦八郎知行分として那東なとう郡細野二一石余とみえる。那東郡那西なさい郡の誤りとみられる。同帳にはほかに太滝寺(加茂村太龍寺)領の那西郡細野二〇石が記される。慶長期のものと推定される国絵図には「ほその」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図には「ほその村」と記され、那西郡に属した。正保国絵図では高四一石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方三六石余・畠方四石余、芝山・小はへ山がある。


細野村
ほそのむら

[現在地名]姫路市豊富町神谷とよとみちようこだに

岩屋いわや村の東に位置し、神谷川の上流域に立地する。東は加西郡大柳おやなぎ(現加西市)。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では田方一四三石余・畑方三六石余。寛延三年(一七五〇)の村明細帳(細野自治会蔵)では高二二二石余、うち永引九石余、ほかに新田畑高一五石余があり、本田・新田合せた反別は二一町一反余。


細野村
ほそのむら

[現在地名]上石津町細野

牧田まきだ川右岸にあり、東は打上うちあがり村。慶長一二年(一六〇七)の時六ヶ村惣高覚(伊藤文書)によると高三三四石余、反別は上田三町二反余・中田二町八反余・下田二町余、上畑一二町六反余・中畑四町三反余・下畑三町七反余、うち茶畑一反四畝余。旗本高木三家領。元禄郷帳に高三二七石余とあり、同三家領。元禄一二年(一六九九)の高木三家知行高帳(福長文書)によると西高木領一七一石余・北高木領七二石余・東高木領八四石余。


細野村
ほそのむら

[現在地名]幸手市細野

そう新田村の東、江戸川左岸に位置する。江戸川と庄内古しようないふる川に挟まれるが下総台地の西端に位置し、表層に関東ローム層が広く分布している。村の西方を庄内堀が流れ、東方を幸手へ通ずる道が通る。正保年間(一六四四―四八)に開発され、慶安年間(一六四八―五二)槙野地まきのじ村から分村したという。下総国葛飾郡庄内領に属した(郡村誌)。元禄郷帳に村名がみえ、高六五石余。


細野村
ほそのむら

[現在地名]上郡町細野

赤松あかまつ村の北東に位置し、白旗しらはた山北西麓の狭小な谷間の村。応永三三年(一四二六)二月五日の学衆方年貢等散用状(東寺百合文書)によれば、前年四月一三日「赤松細野」で勧進猿楽が行われた際、矢野やの(現相生市)が桟敷の料足を負担している。江戸時代の領主の変遷は延享四年(一七四七)までは上郡村に、同年以降は山野里やまのさと村に同じ。正保郷帳に村名がみえ、田高一四石余・畠高七三石余。


細野村
ほそのむら

[現在地名]織田町細野

織田盆地の北部山麓にあり、東は岩倉いわくら村、西は山田やまだ村。応仁―天文年間(一四六七―一五五五)と推定される越前国織田庄指出水帳(山岸家文書)に「壱所 分米五斗 細野藤次作」と地名がみえ、つるぎ大明神神宮寺織田寺の天正七年(一五七九)一〇月日付千手院領指出水帳(劔神社文書)に「細野村弥五郎」と村名がみえる。


細野村
ほそのむら

[現在地名]朝日町細野

北は藤塚ふじづか村・山王さんのう村、東は山崎やまざき村、西は古畠ふるはた(現入善町)、南は山崎新やまざきしん村。舟見野ふなみの一六ヵ村とよばれる村々の一つで、水の便はよくなかった。寛文三年(一六六三)の仮御印では草高四六二石余、免一ツ七歩(三箇国高物成帳)


細野村
ほそのむら

[現在地名]白馬村大字北城ほくじよう 細野

ひめ川上流のまつ川が形成した扇状地上に位置し細野新田ほそのしんでん村とも称する。

信府統記」の「新田開発時節改」によれば、慶安元年(一六四八)沢渡さわど村の枝郷であったものが高分れして独立したことを伝え、これを細野村の初見とする。

扇状地に立地する村であるため地味が低く、そのうえ白馬岳などから流下する川の水は冷たく、積雪も多いことなどから江戸時代を通じて水稲の生産高も低かった。


細野村
ほそのむら

[現在地名]松川村細野

現松川村の南部で、高瀬たかせ川の沖積地に位置し、現在もなお同川の氾濫におびやかされることがある。

細野の名は明応一〇年(一五〇一)二月一一日の三宮穂高社御造宮定日記に、「御玉垣二方半 細野・賀治屋毛見・板取三ケ郷所役」とあるのを初見とする。次いで、天正六年(一五七八)二月の下諏訪春秋両宮御造宮帳によれば、「春秋両宮瑞籬拾間外籬十三間之造宮」として矢原やばら庄の七ヵ郷を挙げている中に「細野」がみえ、諏訪社下社の造宮所役を課されていたことがわかる。


細野村
ほそのむら

[現在地名]守門村細野

松川まつかわ村の北。西の破間あぶるま川対岸は須原すはら村の大谷内おおやち丸山まるやま大原おおはら新田。正保国絵図に村名がみえ、高八石余。天和三年郷帳では高二二石七斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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