井寺
ふじいでら
ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵に治定)の北方にある。紫雲山三宝院剛琳寺と号し、単に剛琳寺ともいい、藤井寺とも書く。真言宗御室派、本尊千手観音。西国三十三所観音霊場の第五番札所。御詠歌は「参るより頼みをかくる藤井寺はなの台に紫のくも」。山号の紫雲山はこの歌にちなむという。大坂方面あるいは第四番施福寺(現和泉市)からの巡礼者は天王寺(現天王寺区)・平野郷町(現平野区)を経て当所に至るのが順路とされ、第六番壺阪寺(現奈良県高市郡高取町)へは古市(現羽曳野市)へ出て竹内街道を行った(西国三十三所名所図会)。
〔開創〕
「拾芥抄」には藤井寺として「河内丹南郡、号剛林寺、従三位藤井給子、等身千手」とあり、永正七年(一五一〇)当寺再興の勧進活動に当たって三条西実隆が記した寺記(「西国三十三所名所図会」所引)や同年の勧進帳(寺蔵)には、聖武天皇の勅願により行基が開基し、さらに平城天皇の御願により皇子阿保親王が再興したとある。藤井給子は古代の史料に登場せず実在を確かめることはできないが、古代に志紀郡長野郷(和名抄)などに集住した百済系渡来人葛井(藤井)連一族の氏寺として建立されたとみるのが通説である。葛井氏は王辰爾の甥の胆津を祖とし、「日本書紀」欽明天皇三〇年条によれば、吉備の白猪屯倉の田部の丁の籍を定めた功によって白猪史を賜姓されたが、その後養老四年(七二〇)五月一〇日葛井連となった(続日本紀)。同氏は近接する丹比郡に集住する船連・津連と親密な関係にあり、「日本後紀」延暦一八年(七九九)三月一三日条によると、三氏は丹比郡の野中寺(現羽曳野市)の南の「寺山」を共同の墓地としている。阿保親王の母は「続日本後紀」承和九年(八四二)一〇月二二日条には「葛井氏」とあり、「尊卑分脈」には「番長藤姫」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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