井田一郎(読み)イダ イチロウ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「井田一郎」の解説

井田 一郎
イダ イチロウ


職業
ジャズバイオリニスト 作曲家 編曲

生年月日
明治27年

出生地
東京市 浅草区(東京都台東区)

経歴
東京・浅草に生まれ、幼少時は家庭の事情で各地を転々とする。明治43年三越呉服店音楽部オーケストラに入り、トランペットを担当。同楽団ではたびたび社交ダンスの伴奏を手がけたことから、若い頃よりダンス音楽やジャズに関心を持つ。大正のはじめごろにはラグタイムフォックストロットといった新しいダンス音楽を米国の音楽雑誌から見つけて演奏しており、噂を聞きつけた瀬戸口藤吉がその演奏法を教わりに来たほどであった。のち三越を辞めて日本郵船客船・鹿島丸の船内バンドに加入し、横浜・鶴見に新しくできる日本初の公開ダンスホール・花月園のために米国で楽器を買い付けて帰国してからは同園のダンスバンドに所属し、バイオリンを担当。大正8年再び東洋汽船の天洋丸に乗り込んだのを経て、11年三越時代の恩師東儀哲三郎の紹介で宝塚オーケストラに入る。同楽団では社長の吉岡重三郎の許可を得てジャズの演奏も行ったが、当時はまだ音楽家の間でもジャズへの理解がなく、他の楽団員から反発を受けて12年退団。同年岩波桃太郎、高見友祥らとともに日本初のプロジャズバンドであるラフィング・スターズを結成し、関西方面のカフェやダンスホールで活躍。また宝塚時代からの知人であった原田潤の招きで大阪松竹楽劇団にも加わるが、ここも短期間で退団した。13年南海電鉄の後援で大浜少女歌劇が設立されると、その指揮者兼編曲者として迎えられ、オーケストラだけでなく演出や振付けも手がけた。14年には高見、平茂夫、山口豊三郎ら草創期における一流のジャズメンたちとともにチェリーランド・ダンス・オーケストラを組み、はじめは関西を中心に活動するが、のちには東京にも進出し、昭和3年4月には浅草電気館で日本初といわれるジャズ・コンサートを開いた。傍ら二村定一と組んで「木曽節」「安来節」「小原節」といった日本民謡をダンス用のフォックストロットに編曲してレコードに吹き込み、“ジャズ・ソング”と銘打って発売、好評を博した。しかしバンドの方は度重なる内紛でメンバーを入れ替え、一時は南里文雄、飯山茂雄らも参加。4年には自身が編曲した「東京行進曲」が当時としては異例の25万枚を売り上げる大ヒットとなったことから編曲の仕事が忙しくなり、バンドを解散してビクターに入社し、指揮者兼専属作・編曲者に就任。5年にはポリドールに移籍し、飯山らとともにポリドール・オーケストラを組織して多くのジャズ・ソングを吹き込んだ。さらに6年には紙恭輔の後任としてコロムビア・オーケストラの指揮者兼編曲者となり、日本コロムビアが発売したジャズ・ソングのほとんどを編曲し、服部良一から“ダンスジャズ・アレンジャーの先駆者”と賞賛された。しかし戦後は米兵相手のリクエスト・バイオリン弾きで糊口をしのぐなど不遇で、晩年は写譜業を営んだ。

没年月日
昭和47年 3月14日 (1972年)

伝記
タカラヅカ・ベルエポック〈2〉宝塚モダニズムは世紀を超えて 津金沢 聡広,名取 千里 編著(発行元 神戸新聞総合出版センター ’01発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「井田一郎」の解説

井田一郎 いだ-いちろう

1894-1972 大正-昭和時代のバイオリニスト。
明治27年生まれ。大正12年わが国最初のプロのジャズバンド「ラフィング・スターズ」を結成,昭和3年浅草電気館でジャズコンサートをひらいた。日本のジャズの父といわれる。昭和47年3月14日死去。78歳。東京出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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