服部良一(読み)ハットリリョウイチ

デジタル大辞泉 「服部良一」の意味・読み・例文・類語

はっとり‐りょういち〔‐リヤウイチ〕【服部良一】

[1907~1993]作曲家。大阪の生まれ。アメリカ音楽の要素を取り入れた独自のスタイルにより、ブルース・青春歌謡など、生涯に3000曲以上を作曲。没後国民栄誉賞受賞。代表作別れのブルース」「東京ブギウギ」「青い山脈」など。

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20世紀日本人名事典 「服部良一」の解説

服部 良一
ハットリ リョウイチ

昭和期の作曲家,指揮者 日本作曲家協会会長;日本音楽著作権協会名誉会長。



生年
明治40(1907)年10月1日

没年
平成5(1993)年1月30日

出生地
大阪府大阪市本庄

別名
作詞家名=村雨 まさを

学歴〔年〕
大阪市立実践商業〔大正13年〕中退,大阪音楽学校ピアノ専科〔大正14年〕中退

主な受賞名〔年〕
日本レコード大賞10周年記念賞〔昭和43年〕,紫綬褒章〔昭和44年〕,勲三等瑞宝章〔昭和53年〕,日本作詩大賞特別賞(第16回)〔昭和58年〕,日本レコード大賞審査委員特別顕彰〔昭和63年〕,国民栄誉賞〔平成5年〕,歌謡ゴールデン大賞〔平成5年〕

経歴
高小卒業後、働きながら夜学に通い、大正12年出雲屋少年音楽隊に入隊。15年大阪中央放送局の管弦楽団員となり、同指揮者であったソ連の作曲家E.メッテル師事、作曲理論を学ぶ。一方、ジャズ洗礼も受け、自らバンドを作り道頓堀の人気者となる。昭和8年上京、人形町のダンスホール「ユニオン」のバンドにサックス・プレイヤーとして参加。11年コロムビア・レコード専属作曲家となり、12年最初のヒット曲「別れのブルース」を生み出す。以後湖畔の宿」「東京ブギウギ」「青い山脈」など、戦前、戦後を通じ現在まで、常に庶民に愛される、音楽的にも完成度の高いポピュラー・ミュージックを提供しつづけてきた。日本作曲家協会会長、東京音楽祭審査委員長、日本音楽著作権協会会長を兼任。53年には音楽家としては最高の勲三等を受けている。自伝に「ぼくの音楽人生」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「服部良一」の意味・わかりやすい解説

服部良一
はっとりりょういち

[生]1907.10.1. 大阪
[没]1993.1.30. 東京
作曲家。大阪市立実践商業に通いながら少年音楽隊に入隊。卒業後,のちの NHK大阪放送局が結成した大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団,かたわら,ロシア人指揮者のエマヌエル・メッテルの指導を受ける。 1933年上京し,ジャズの編曲で注目され,36年コロムビアレコードに専属作曲家として入社。 37年に作曲し,淡谷のり子が歌った『別れのブルース』が大ヒット。その後も『湖畔の宿』 (高峰三枝子) ,『蘇州夜曲』 (霧島昇,渡辺はま子) などで人気作曲家となる。第2次世界大戦後は 46年,榎本健一が率いる一座の『踊る竜宮城』の音楽担当として音楽活動を再開。 48年『東京ブギウギ』 (笠置シヅ子) ,49年『青い山脈』 (藤山一郎) とたて続けにヒットをとばし,日本ポップス音楽界の草分けとしての地位を築いた。 58年には,日本作曲家協会理事長として初のディスク・グランプリ「日本レコード大賞」を設立した。生涯を通じて 3000曲以上の作品を残した。没後,国民栄誉賞が贈られた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「服部良一」の意味・わかりやすい解説

服部良一
はっとりりょういち
(1907―1993)

作曲家。大阪府生まれ。大阪実践商業を卒業。在学中に大阪ミナミのうなぎ屋の出雲(いずも)屋少年音楽隊に入る。1926年(大正15)大阪放送のフィルハーモニックオーケストラに入団し、指揮者エマヌエル・メッテルから作曲理論と指揮法を学ぶ。また、カフェやダンスホールでバンドマンとしてジャズを演奏。1933年(昭和8)東京に出て、1936年日本コロムビアに専属作曲家として入社。淡谷のり子の吹き込んだ『別れのブルース』『雨のブルース』が大ヒット、続いて『湖畔の宿』『蘇州夜曲』もヒットした。反骨精神から軍歌をつくらず、『夜のプラットホーム』は退廃的と発売禁止になった。戦後は笠置(かさぎ)シヅ子の『東京ブギウギ』『買物ブギウギ』、さらに『銀座カンカン娘』『青い山脈』とヒットを連発した。作曲数は3000曲を超える。日本作曲家協会長、日本音楽著作権協会長を歴任。1993年(平成5)国民栄誉賞を受賞。著書に『ぼくの音楽人生』。平成5年1月30日没。

[編集部]

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百科事典マイペディア 「服部良一」の意味・わかりやすい解説

服部良一【はっとりりょういち】

作曲家。大阪府生れ。大阪音楽学校中退。《別れのブルース》《湖畔の宿》《蘇州夜曲》《夜のプラットホーム》《東京ブギウギ》《青い山脈》《銀座カンカン娘》などを作曲。敗戦後の世相に明るい歌を提供した。1993年国民栄誉賞(死後追贈)。
→関連項目歌謡曲

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「服部良一」の解説

服部良一 はっとり-りょういち

1907-1993 昭和時代の作曲家。
明治40年10月1日生まれ。昭和11年コロムビアレコード専属となり,「別れのブルース」を発表。戦争中,軍歌はつくらず,「湖畔の宿」などが発売禁止となった。作品は「蘇州夜曲」「東京ブギウギ」「青い山脈」など3000曲をこえる。日本作曲家協会会長。国民栄誉賞。平成5年1月30日死去。85歳。大阪出身。大阪市立実践商業中退。

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367日誕生日大事典 「服部良一」の解説

服部 良一 (はっとり りょういち)

生年月日:1907年10月1日
昭和時代;平成時代の作曲家;指揮者
1993年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の服部良一の言及

【歌謡曲】より


[ジャズ歌謡]
 昭和に入ってまもなく,ビクター,コロムビア等外国のレコード会社が日本に進出し,ジャズ等ポピュラー音楽がどんどん輸入され,《君恋し》(時雨音羽作詞,佐々紅華作曲,1928)等ジャズのリズムをもった曲が作られるようになった。外国系リズムやフィーリングをもった伴奏の上に歌謡曲の旋律をのせてゆくスタイルを完成させたのは服部良一で,《別れのブルース》(藤浦洸作詞,1937)では,ブルースのブームをひきおこした。終戦後はアメリカからブギウギ,ロックンロール等新しいリズムが入るたびに,そのリズムを基調とする〈ポップス系歌謡曲〉が作られ,若者たちをとらえる一方,伝統的な演歌が中高年層をとらえるという二極化がはじまる。…

※「服部良一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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