人文学(読み)じんぶんがく

大学事典 「人文学」の解説

人文学
じんぶんがく

文学は,広義には人類の文化的資料の生産・保存・解釈に関する学問総称であり,狭義には自然科学や社会科学に対して,哲学・文学・歴史・宗教・言語・芸術などに関する諸学問を指す。ほぼ同義の表現として人文科学(human sciences),精神科学(moral science; Geisteswissenschaften)がある。

 自然科学は自然の諸現象を観察し実験をすることで客観的な法則を導き出し,社会科学は人間集団の行動や社会的制度を対象とし,一定の諸条件からその一般的な構造が解明され予測される。実証的な方法による定量的な科学とは異なり,人文学は人間の精神的な活動や経験を対象とし,人間本性の探求を目的とするという定性的な学問である。必ずしも実験や統計による実証が当てはまるわけではなく,おもに文献学的手法に立脚し,その解釈の妥当性や説得性,整合性が学問的明証性の基準となる。広義のテクスト読解注釈においては読み手の経験や感性思想が重要な役割を果たすため,人文学は対象を形式化・規範化・方法化し難いとされる。客観的で実証的な方法だけでなく,人文学には歴史的条件下での論理的考察や合理的解釈,審美的判断にもとづく意味や価値の付加も重要となる。

 人文学は古代ローマで形成されたフマニタス(人文主義)に由来する。キケロ,M.T.によれば,フマニタスは,伝統的な徳という実践的・社会的な卓越性と,知的洗練や教養という自己完成の理念を含意していた。人間が人間であるゆえんを示すフマニタスには道徳的要素と知的要素が含まれていた。14~15世紀のルネサンス期にフマニタス研究進展し,古典古代の文献が新たに多数発掘されてヨーロッパに紹介された。人文主義の隆盛はスコラ諸学に対抗する形で人間性をめぐる広範囲の知的・文化的な運動を引き起こし,その後,18世紀後半のドイツで新人文主義(Neuhumanismus)として復興した。人文主義の目的は古典古代の文献の講読と注解を通じた人間性の普遍的な涵養であり,規範や調和,完成に立脚した人間的本質の探究が目指された。

 19~20世紀にかけて従来の人文主義は実証的な歴史性を帯びていき,たとえば,歴史や言語もまた自然科学と類似した実証主義的傾向を有するようになる。探究されるべき普遍的な人間精神がそもそも歴史化・相対化されることで,人文学の認識論的な基盤が変化する。また経済,社会,行政,法律,政治などの諸科学が人文学から分離して,独立した第三の学問分野を形成する。実践的な目的にむけた合理的な諸制度を考察するこれら社会科学においては,人間の精神性ではなく人間の実践や行動に力点が置かれるため,人文学特有の意義は後退する。

 さらに1950~60年代にはフランスで構造主義が台頭し,言語学,民族学,精神分析,経済学の新たな発展とともに人文学の地平が激変する。人間は差異関係からなる構造の諸効果にすぎないという方法論的・認識論的な転回によって,人間はもはや人文学的言説の中核を占めなくなり,真理,意味,意図といった従来の重要概念が問い直される。また,多文化主義やカルチュラル・スタディーズ,マイノリティ論,ポストコロニアリズム,ジェンダーやセクシャリティ論,人種やエスニシティ論といった動向とともに,旧来の人文学を支えていた人間本性が実は西洋中心主義や男性中心主義と不可分であることが批判されていく。こうした人文学の自己批判的変容は,進歩的な啓蒙理性を基盤とする一元的な原理に疑問を突きつけ,人間的な歴史の要をなす近代性概念自体を問いに付し続けている。現代の大学において人文学は知的・道徳的な人格形成という点で教養教育の核を担ってきたが,その範例はもはや西欧の古典古代を起源とするエリート教養主義的な人間探究に限らない。多文化世界において多様な他者を承認して,お互いの共存を図る成熟した世界市民の育成や民主主義の教育のために人文学は役立つとされる。

 高等教育の大衆化や高度資本主義の進展とともに,有用性や効率性,生産性といった観点から人文学の有意義性や正当性が問われるようになり,その研究教育を取り巻く現実は厳しくなっている。他方で,人文学は現状に即して,大衆文化論,視覚文化論や表象文化論,メディア論や情報科学論,脳科学論といった形で人文学の多様化し続けている。高度情報社会における人類の知的遺産の保存や分析のためのデジタル・ヒューマニティーズ,科学技術による将来の人類進化に関するポスト・ヒューマニズムといった新たな分野も誕生している。いずれにせよ,人間の思考方法や言語表現,過去の人間の姿の保存と反省,人間が新たに紡ぎ出す物語,人間精神の奥底を揺さぶる諸作品を考究することは,人文学のつねに変わらぬ存在意義であり続けるだろう。
著者: 西山雄二

参考文献: ジャン・ピアジェ著,波多野完治訳『人間科学序説』岩波書店,1976.

参考文献: 西山雄二編『人文学と制度』未来社,2013.

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の人文学の言及

【社会科学】より

…以下では,前者の考え方を実証主義的社会科学観,後者の考え方を理念主義的社会科学観と呼ぶことにする。
【成立史】
 フュシスと区別された意味でのノモスについての学問(文科系の学問)は,人文学(以下このように〈科学〉の語を除去して用いる)と社会科学とに分かれる。人文学は,ギリシア・ローマおよび中国,インドの古代における哲学的思惟をその源泉とし,これに同じくギリシア・ローマと中国に源泉をもつ史学と,同様にギリシア・ローマと中国の古典についての文献学,さらに近代語,近代文学についての研究を合わせたものを指し,古代以来連綿と続いてきた伝統をもつことと,西洋にも東洋にもその源泉があることとを特徴とする。…

【人文科学】より

…学問分類上の一名称。古典文学や哲学の研究を〈人文学humanities〉と呼ぶのは,ルネサンス期の古典研究と〈人間性研究humaniora〉の系譜をひく。日本で人文科学と呼ばれているのは,文学部,教育学部などの学科中,自然科学社会科学とに属しないもの,すなわち広義の哲学,文学,史学の総称であり,実質的には文化科学から社会科学の大部分を除いた部分の総括である。…

※「人文学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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