今浜村(読み)いまはまむら

日本歴史地名大系 「今浜村」の解説

今浜村
いまはまむら

[現在地名]敦賀松島まつしま

敦賀湾奥、しようノ川三角州前面の浜堤上に位置し、東は敦賀出村でむら町、西は櫛川くしかわ気比松原けひのまつばら。中世は野坂のざか庄のしま郷に含まれていたかと思われる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図にも当地辺を島郷(高二千四一一石余)とする。正保郷帳に今浜村と出、村高七三四石余、うち田方が大部分で七一七石余。小浜藩主酒井忠直の死去に際し五男数馬忠垠に敦賀郡の地三千石一一ヵ村を分給し、旗本井川領が天和二年(一六八二)に成立したが、その際に当村は高六二四石余が井川領(西今浜村)、八九石余が小浜本藩領(東今浜村)の相給となった。井川領分は宝暦七年(一七五七)東西に分村して井川陣屋が天保六年(一八三五)まで直接支配した以外は、本藩の預支配地であった。

正保三年(一六四六)五月の御所辻子今浜出入之事(松島西野家文書)

<資料は省略されています>

と記す。漁業の比重は大きく、寛文七年(一六六七)の敦賀郡内総舟数二二六のうち当村は二八艘を占める(寛文雑記)。享保一二年(一七二七)の敦賀郷方覚書によれば、庄屋久右衛門(持高三二石余、庄屋役両藩兼務)、牛馬銀一六匁余、睦月銀一五匁、海役銀二六匁余、入草銀一一匁余、櫛川御林松葉代米二石余、馬足六匹、家数一二四、うち高持三二・無高七七・寺一五、人口五〇六、舟数一〇。

今浜村
いまはまむら

[現在地名]押水町今浜

米出こめだし村の北、日本海の内陸砂丘上に位置する集落で、内浦街道と外浦街道との追分宿として発達した。「能登名跡志」によると当地は昔は荒浜であったが、能登街道の宿駅であった北川尻きたかわしり村は水難で退転し、宿しゆく村の駅も兵火で中絶して子浦しお(現志雄町)から高松たかまつ(現高松町)までの駅間が離れすぎたため、近くの「細見村・新保村・鍋坂村」の三ヵ村を合せて新宿とし、今浜と称するようになったという。

正保郷帳の高三七八石余、田方二〇町七反余・畑方四町五反余、免四ツ二歩、新田高一八八石余(免三ツ八厘)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると高五七三石、免四ツ五歩、新田高一三石、小物成は山役二二三匁、鳥役一〇目(出来)、網役一一九匁(ほか二三匁退転)、猟船櫂役八五匁(うち一五匁出来)、外海船櫂役一四匁(出来)、末森山下刈役三九匁で地子銀五三匁が課せられた(三箇国高物成帳)。天保年間(一八三〇―四四)の村明細では高六一八石となり、新開高九二石、家数二一三(うち頭振一四八)・人数一千二四六、馬二五、稼は引網・苧・駄賃・日雇で、新たに一八〇匁の伝馬役を賦課されている。なお地子銀は今浜出いまはまで村に課せられたもので、出村は街道沿いに拡大した新規の町並とみられ(押水町史)、元和元年(一六一五)すでに地子金一両を納め、今浜新村ともいった(今浜区有文書)

今浜村
いまはまむら

[現在地名]守山市今浜町

戸田とだ村の北西、野洲やす川南流の河口付近に位置。文明九年(一四七七)一二月二七日、津田弥三郎重祐が買得した野洲南やすみなみ郡今浜庄内平四郎名ならびに田畑屋敷散在等の相伝知行を認める幕府の裁許が下った(政所賦銘引付)。天正一九年(一五九一)四月の徳川家康知行目録写(大谷文書)に「四百九拾四石弐斗弐升 今浜」とある。寛永石高帳によれば旗本上田領で高三七〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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