細見村(読み)ほそみつじむら

日本歴史地名大系 「細見村」の解説

細見
ほそみつじむら

[現在地名]三和町字辻

多紀たき(現兵庫県)境に源を発してほぼ東北に流れる約八キロの細見川が、土師はぜ川に合流する辺りに発達し、福知山―京街道に沿う。古くはこの細見川の谷を長谷ながたにといい、中流には枝村の細見村(元禄一三年丹波国郷帳の段階では中手村と中嶋村に分れていた)、さらに上流には細見奥ほそみおく村がある。

丹波志」に「市谷ト云所七町斗奥ノ神池嶺有、草山村エ越ス」とあり、西北には草山くさやま村の谷が細見谷に平行し、谷奥は多紀郡氷上ひかみ(現兵庫県)に境する。


細見村
ほそみむら

[現在地名]三和町字中出なかで

土師はぜ川の支流細見川の中流域を占める。下流の細見辻ほそみつじ村の枝村で、元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳の段階では南北に中嶋なかじま村と中手なかで村の二村に分れ、いずれも細見辻村の枝村であった。天保郷帳には「古者中手村中島村二ケ村」として「細見辻村枝郷細見村」と記される。

「丹波志」によると、中手の二の谷を「ソトウ谷」といい、「十町斗行嶺有、草山村エ越一里少下リ谷道牛馬不行、右ノ方ハ牛馬越ス」と西北にあたる草山くさやま村に通じ、続けて「又此道ヨリ氷上郡加茂ノ庄戸平村ヘモ分ル」と西は氷上ひかみ(現兵庫県)と境する。


細見村
ほそみむら

[現在地名]鳥取市細見

上原うえばら村の南西方、野坂のさか川の支流細見川に沿う。奥細見と口細見の集落に分れ、その間二〇町ほど。奥細見から松上まつがみ村へ一五町で、これを「しる谷越」といった。口細見は箕上みのかみ山の南麓にあたり、村まで山道で一里余(因幡志)。拝領高は二一一石余、本免四ツ。文政一二年(一八二九)の高草郡中構下札目録帳(奥田家文書)では朱高二三〇石余・生高二七六石余、物成一〇六石余、山札銀一七匁五分が課されていた。本郷氏・米村氏・山脇氏、東館家家臣松田氏、西館家家臣藤田氏・川端氏の給地があった(給人所付帳)。天保一四年(一八四三)の村々人数増減書上帳(加藤家文書)によると男一二二・女一三六。


細見村
ほそみむら

[現在地名]芸北町細見

大暮おおくれ村の南にあり、四周は高山に囲まれ、東北が最も高い。東は小原こばら村、西は川小田かわこだ村に接する。元和五年(一六一九)の安芸国知行帳には高四五・四石と七七・二九石に分けて高付されるが、享保一二年(一七二七)の山県郡村々万覚書(深井家蔵)では新開高も加え一五一・五七石。広島藩領明知・給知入交じり。

農業が中心の村で、雑穀作物に大豆小豆・粟・熊子くまご小黍蕎麦および煙草・麻が少々作られ、農閑には山稼をした。


細見村
ほそみむら

[現在地名]出石町細見

すげ川を挟んで荒木あらき村の南に位置し、集落は同川の右岸に注ぐ細見川下流域に発達。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえる。出石封内明細帳によると拝領高三二三石余・改出高四一石余、これらの内訳は屋敷四石余・麻畑一石余・田方三三四石余・畑方二三石余、ほかに古新発高五一石余・新発高一石余、家数四一・人数一五五。小物成として茶代米一石二斗余・山手米七斗余、刈畑役の蕎麦一石、桑代の真綿五六三匁余ほかを上納していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android