仙石村(読み)せんごくむら

日本歴史地名大系 「仙石村」の解説

仙石村
せんごくむら

[現在地名]古殿町仙石

鎌田かまた村の北、さめ川の支流組矢くみや川流域の山間に立地。千石とも書き、中世には石川庄のうちで、石川一族の仙石氏が拠った仙石館(雀ガ城・松山城)跡が、須受売すずめ神社(旧飯豊比売神社)の社前丘陵上にある。文永二年(一二六五)八月二三日の北条時宗下知状(秋田藩家蔵赤坂文書)に「千石」とみえ、承元三年(一二〇九)に石川光盛から嫡子光重に譲られた石川庄内九ヵ村のうちの一村であった。観応三年(一三五二)四月一三日の吉良貞家吹挙状案(板橋文書)に、石川庄のうち「千石・板橋」とみえる。


仙石村
せんごくむら

[現在地名]大泉町仙石

南を利根川が流れ、東は吉田よしだ村、西は用水堀で古戸ふつと(現太田市)、南は武蔵国幡羅はたら妻沼めぬま(現埼玉県大里郡妻沼町)、北は吉田よしだ村・寄木戸よりきど村に接する。村の中央部を古戸から館林への道が通る。近世は初め館林藩領。寛永二〇年(一六四三)幕府領となり、寛文元年(一六六一)館林藩領となる。寛文郷帳では田方四六石七斗余・畑方六二三石七斗余で、田方に「水旱両損」と注記される。


仙石村
せんごくむら

[現在地名]上山市仙石・東町ひがしまち金生かなおい一丁目

山山麓西斜面にあり、北西小泉こいずみ村がある。地名は千石船が着いたという伝説に由来し、今もふねつなぎ石と称する石が残る。仙谷とも書く。和銅年間(七〇八―七一五)稲毛久馬が開発したともいわれる(上山見聞随筆)。地内に享禄二年(一五二九)の板碑がある。天正二年(一五七四)の伊達輝宗日記(伊達家文書)五月二〇日条に「天き上々、風ふく、動候、せんこくやけ候、てつぽういくさ、又少やり合候」とみえる。最上義守・義光父子の抗争に際し、輝宗も出陣して楢下ならげを攻略、小早川盛宗(泥蟠斎)先陣に当地を攻撃、鉄砲による銃撃戦で村は兵火にあう。


仙石村
せんごくむら

[現在地名]塩沢町仙石

徳田とくだ新田の南。西は舞子まいこ村、南は山地、東は大木六おおきろく村・吉山よしやま新田。支集落前田原まえだはらが大木六集落との間の平地にあり、柄沢からさわは大木六村はらの南に続く山地にある。柄沢は明暦元年(一六五五)、前田原は同二年の開発と伝える(南魚沼郡誌)。年月日未詳の高梨氏所領注文(高梨文書)に「せんこく」とみえる。年不詳九月一八日の上村尚秀書状(上杉家文書)には「千石」と記す。正保国絵図に村名がみえ、高六四〇石余。天和三年郷帳では高三六三石七斗余のほかに、同所新田高一八七石三斗余と同所七郎右衛門新田高一九石二斗余が記される。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では高五七〇石三斗余のうち新田畑は高二〇六石六斗余、反別は田三四町九反余・畑一八町三反余、家数九四、男一八九・女一六五、牛五・馬四二。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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