伊庭貞剛(読み)イバ サダタケ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「伊庭貞剛」の解説

伊庭 貞剛
イバ サダタケ


肩書
衆院議員,住友家総理事

別名
幼名=耕之助 号=幽翁

生年月日
弘化4年1月5日(1847年)

出生地
近江国蒲生郡武佐村西宿(滋賀県近江八幡市)

経歴
近江国に代官の長男として出生。17歳のとき勤皇討幕の商人西川吉輔知遇を得て慶応3年(明治元年・1867)出京、朝廷方の警備隊員となる。維新後、明治政府で末端司法官として出仕、明治12年大阪上等裁判所判事を依願免官。まもなく叔父広瀬宰平の勧めで住友家に入り、14年本店支配人となる。27年別子鉱業所に紛争が勃発すると同所勤務となり、29年同所支配人に任ぜられ、煙害問題紛争処理、精錬所の四阪島移転などにあたった。30年総理事心得、32年本店に戻り、33年総理事。住友の近代化を進め、住友林業、住友化学工業などの母体をつくった住友“中興の祖”。37年勇退し、大正12年顧問を最後に引退。また、大阪紡績大阪商船重役、大阪商業学校校長なども務め、明治23年には第1回衆院議員に当選した。

没年月日
大正15年10月23日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「伊庭貞剛」の解説

伊庭 貞剛
イバ サダタケ

明治期の実業家 住友家総理事。



生年
弘化4年1月5日(1847年)

没年
大正15(1926)年10月23日

出生地
近江国蒲生郡武佐村西宿(滋賀県近江八幡市)

別名
幼名=耕之助,号=幽翁

経歴
近江国に代官の長男として出生。17歳のとき勤皇討幕の商人・西川吉輔の知遇を得て慶応3年(明治元年・1867)出京、朝廷方の警備隊員となる。維新後、明治政府で末端の司法官として出仕、明治12年大阪上等裁判所判事を依願免官。まもなく叔父・広瀬宰平の勧めで住友家に入り、14年本店支配人となる。27年別子鉱業所に紛争が勃発すると同所勤務となり、29年同所支配人に任ぜられ、煙害問題紛争処理、精錬所の四阪島移転などにあたった。30年総理事心得、32年本店に戻り、33年総理事。住友の近代化を進め、住友林業、住友化学工業などの母体をつくった住友“中興の祖”。37年勇退し、大正12年顧問を最後に引退。また、大阪紡績、大阪商船の重役、大阪商業学校校長なども務め、明治23年には第1回衆院議員に当選した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「伊庭貞剛」の解説

伊庭貞剛

没年:大正15.10.23(1926)
生年:弘化4.1.5(1847.2.19)
明治時代の実業家。近江国蒲生郡武佐村(滋賀県近江八幡市)に生まれる。叔父の住友家筆頭番頭の広瀬宰平の招きにより,明治12(1879)年司法官から転じて住友に入り,重役となる。別子鉱業所支配人などを経て,33年総理事となり,住友の財閥化の基礎を固めた。大阪紡績,大阪商船の設立にかかわり,大阪商業会議所議員となるなど,住友家を代表して大阪財界でも活躍した。37年総理事を鈴木馬左也に譲って引退。<参考文献>神山誠『伊庭貞剛』,西川正治郎『幽翁』,住友春翠編纂委員会編『住友春翠』

(小風秀雅)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊庭貞剛」の解説

伊庭貞剛 いば-さだたけ

1847-1926 明治時代の実業家。
弘化(こうか)4年1月5日生まれ。明治12年叔父(おじ)で住友家筆頭番頭の広瀬宰平にまねかれ,司法官から住友家の本店支配人となる。別子鉱業所支配人,総理事を歴任し,住友財閥の基礎をきずいた。大阪紡績,大阪商船の創立にもかかわった。23年衆議院議員。大正15年10月23日死去。80歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。号は幽翁。
【格言など】事業の進歩発達に最も害をなすものは,青年の過失ではなくて,老人の出しゃばりである(明治37年58歳で引退する際のことば)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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