広瀬宰平(読み)ひろせ・さいへい

朝日日本歴史人物事典 「広瀬宰平」の解説

広瀬宰平

没年:大正3.1.31(1914)
生年:文政11.5.5(1828.6.16)
幕末明治期に住友財閥と大阪財界発展の基礎を築いた実業家。諱は満忠,号は保水,遠図,通称は新右衛門,義右衛門,宰平。近江国野洲郡八夫(滋賀県野洲郡中主町)の医者北脇理三郎と美根子の次男として生まれ,天保9(1838)年11歳で住友経営の別子銅山勘場に奉公,以後56年間住友に勤務した。安政2(1855)年,28歳のとき広瀬家(予州住友別家)の養子となり,慶応1(1865)年38歳の若さで別子銅山支配人となった。明治維新の動乱に際し,官軍に接収された別子銅山の稼行権を新政府に認めさせ,経営難による別子売却説を断固阻止し,フランス人技師コワニェとラロックを招いて近代化を敢行するなど,住友の財本の別子銅山を再生させた。その間,明治1(1868)年と4年鉱山司の役人として出仕,初期の鉱山行政に協力した。明治10年住友家総理代人(のちの総理事)となり,15年住友家法を制定して発展の基礎を固めた。外部では,五代友厚らと図って11年大阪商法会議所,大阪株式取引所,12年硫酸製造会社,14年関西貿易社,大阪製銅会社,15年大阪商船など幾多の会社を設立。明治25年,明治国家の功労者として民間最初の勲4等瑞宝章を受章。まさに「東の渋沢,西の広瀬」というべき大阪財界の柱石であった。明治20年別子山上の演説で,住友の事業を国家の発展にも寄与させたいと述べたが,その後の事業における独走は様々の軋轢を生み,明治27年67歳で引退を余儀なくされた。翌年,自伝『半世物語』を刊行して須磨に隠棲したが,国家と主家に対する忠誠心を終生忘れず,他界前年「逆命利君,謂之忠」と揮毫した。大阪・新居浜近江八幡に分骨埋葬された。<著作>『半世物語』(復刻,1982)<参考文献>広瀬満正『宰平遺績』,末岡照啓「明治二十年別子山上における広瀬宰平演説と住友の事業精神」(『住友史料館報』22号)

(末岡照啓)

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改訂新版 世界大百科事典 「広瀬宰平」の意味・わかりやすい解説

広瀬宰平 (ひろせさいへい)
生没年:1828-1914(文政11-大正3)

幕末・明治前半の実業家。近江国野洲郡八夫村生れ。幼名北脇駒之助。11歳から別子銅山支配方の叔父北脇治右衛門の世話で銅山勘定場に奉公,以来57年間住友家につくした。28歳で住友家に功労ある広瀬家を夫婦養子として継ぎ,広瀬義右衛門と改名,維新後宰平と称した。39歳で銅山総支配人に抜擢(ばつてき)され,維新で官軍に接収された別子銅山を当局者に嘆願して取り戻し,また財政難から売却説に傾いたときも断固反対して銅山を守り抜いた。果敢な行動で住友の危機を救った彼は,以後銅山近代化工事に取り組み増産に成功,住友財閥の基盤を築いた。本店総理人に昇格後,住友家法を制定する一方,五代友厚らと大阪商法会議所,大阪株式取引所を創立,大阪製銅,大阪商船の設立など大阪財界のために活躍した。反面,強烈な独裁への反感が強まり1894年引退させられた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「広瀬宰平」の意味・わかりやすい解説

広瀬宰平
ひろせさいへい
(1828―1914)

幕末・明治期の実業家。幼名北脇駒之助。近江(おうみ)国野洲(やす)の出身。28歳で広瀬家を継ぎ義右衛門と改名。維新後宰平と称し、号は保水。11歳から叔父の勤める別子銅山に奉公、下積みからたたき上げ、39歳で銅山総支配人に抜擢(ばってき)され、維新期、住友の危機を救った。すなわち、別子銅山が官軍に接収されたとき、所有権を主張して取り返し、財政難で売却説に傾いたとき断固中止させ、新技術を導入して近代化工事を完成させるなど住友財閥確立に貢献した。本店総理人となって家憲・家法の制定、急死した当主の後継者選び、五代友厚(ごだいともあつ)とともに大阪財界活動を展開するなど指導力を発揮したが、独裁への反対運動のため引退を余儀なくされた。

[麻島昭一]

『広瀬宰平著『半世物語』(1895/『現代日本記録全集8』所収・1969・筑摩書房)』『広瀬満正著・刊『宰平遺績』(1926)』

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百科事典マイペディア 「広瀬宰平」の意味・わかりやすい解説

広瀬宰平【ひろせさいへい】

実業家。住友家の筆頭番頭。11歳で別子銅山勘定場の給仕となり,明治維新に際し別子銅山を新政府の没収から守った。住友家事業の近代化を図り,住友財閥発展の基礎を築いた。五代友厚らと大阪商法会議所,大阪株式取引所,大阪商業講習所(大阪市立大学の前身),大阪商船会社などを設立。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「広瀬宰平」の意味・わかりやすい解説

広瀬宰平
ひろせさいへい

[生]文政11(1828).5.15. 近江
[没]1914.1.30. 兵庫
住友家の基礎を築いた功労者。幼名駒之助。9歳のとき叔父北脇治右衛門に伴われて伊予に行き,11歳で別子銅山勘定場の丁稚となった。 28歳のとき大坂の今西徳右衛門の娘相子と結婚。のち住友江戸支店支配方であった広瀬儀右衛門の夫婦養子として入籍。慶応1 (1865) 年 39歳で別子銅山の支配人となり,官軍が別子銅山を差押えようとしたときに,これを阻止して住友の所有権を認めさせ,以後銅山の経営改革に着手,外国技術の導入と合理化によって産出量の増大をはかり住友の基礎固めに尽力した。のち住友の初代総理事となった。 1878年には大阪商法会議所を設立,さらに大阪株式取引所を創立し,84年には大阪商船会社 (現大阪商船三井船舶) を創設した。 97年古希を機会に住友総理事の座を去り,悠々自適の余生をおくった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「広瀬宰平」の解説

広瀬宰平 ひろせ-さいへい

1828-1914 幕末-明治時代の実業家。
文政11年5月5日生まれ。11歳のときから住友家の別子銅山ではたらき,慶応元年支配人となる。維新後は同銅山の近代化につとめて,住友財閥の基礎をきずく。明治10年住友本店総理人となり,大阪商法会議所,大阪株式取引所の設立などにつくした。大正3年1月31日死去。87歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。本姓は北脇。
【格言など】自利利他公私一如

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世界大百科事典(旧版)内の広瀬宰平の言及

【住友財閥】より

住友家の事業は1690年(元禄3)に発見された別子銅山を主柱に展開された。1865年(慶応1)別子銅山支配人に抜擢された広瀬宰平は,すでに老朽化し経営難に陥っていた同山を再建すべく尽力し,外人技師ラロックの助言,新技術の採用によって,近代化工事を推進,生産量を飛躍的に伸ばし,同山をふたたび住友家の中心的存在とした。広瀬の引退(1894)後,住友家は本格的多角経営をはじめる。…

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