三井,三菱とならぶ第2次大戦前の三大財閥のひとつ。古い歴史をもち,大阪を本拠とし,素材産業の比重が高い財閥。住友家の事業は1690年(元禄3)に発見された別子銅山を主柱に展開された。1865年(慶応1)別子銅山支配人に抜擢された広瀬宰平は,すでに老朽化し経営難に陥っていた同山を再建すべく尽力し,外人技師ラロックの助言,新技術の採用によって,近代化工事を推進,生産量を飛躍的に伸ばし,同山をふたたび住友家の中心的存在とした。広瀬の引退(1894)後,住友家は本格的多角経営をはじめる。すなわち銀行,伸銅,倉庫,鋳鋼,電線,肥料へと進出し,続々と独立事業所に発展させ,昭和初期までに多くの事業所が株式会社に改組された。しかし明治中期から別子銅山の精錬所が引き起こした煙害は,周辺農村に深刻な打撃を与え,社会問題にまで発展した。住友は精錬施設を四阪島に移したが効果なく,長い間公害紛争が続き,昭和期に新技術の開発で解決するまで賠償金を支払い続けた。大正末期から昭和初期にかけては,信託,生命保険,電力,ビル,大阪北港,損害保険などを傘下事業に加え,総合財閥の形を整えた。これにより財閥内での別子銅山の地位は相対的に下がり,銀行が抜群の地位を誇り,製造部門の比重がしだいに高まった。住友では一定の資格を備えた直系の支配会社を連系会社と呼び,他の傘下会社と区別した。住友家の家長は代々吉左衛門を襲名,財閥の象徴に徹し,実際の運営は全面的に歴代の専門経営者に委任した。典型的な番頭政治である。広瀬のあと伊庭貞剛,鈴木馬左也,中田錦吉,湯川寛吉,小倉正恒,古田俊之助と続く歴代総理事の下に,強固な集権制が敷かれた。住友では厳格な等級制が実施され,傘下全事業の人事・投資・資金を本社が統括,傘下各社は独立会社の形式をとっても,事実上は本社に統括された事業所にすぎなかった。1921年個人経営の住友総本店は住友合資会社に改組され,住友家家計と事業は分離した。
1883年制定以来改正を重ねた〈住友家法〉は,住友財閥の組織・行動等を規制する基本であったが,その大筋は1928年制定の〈社則〉に受け継がれた。準戦時体制下の住友財閥では軍需拡大の波に乗り,花形産業となった住友金属工業を筆頭に,化学,電工,アルミ,機械,日本電気など製造諸会社が急膨張を遂げた。37年住友合資会社は株式会社住友本社に改組,すでに直営事業の多くを分離独立させたので,持株会社の性格をいっそう強めた。第2次大戦終了時の住友財閥は,直系14社,準直系6社,特殊関係4社,合計24社を擁する巨大財閥であった。46年3月の財閥家族の指定,同年9月持株会社の指定をはじめ,いわゆる財閥解体措置により住友財閥は消滅した。傘下会社は自立化の道を歩むとともに,財閥商号使用禁止措置で一時〈住友〉の名称を変更したが,52年の禁止解除とともに続々と旧名称に復帰した。住友の場合,企業分割は住友鉱業1社にすぎず,旧住友系企業群は住友銀行を中心に再結集をはかり,各社社長で組織した白水会は住友グループの最高機関として有名。銀行,信託,生命保険など住友系金融機関による系列融資を軸に,総合商社として戦後急発展の住友商事を加え,巨大な企業集団となった住友グループは戦後も強固な結束と発展力を誇っている。
執筆者:麻島 昭一
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戦前の三大財閥の一つ。大阪を本拠とし、素材産業を中心に発展した総合財閥。発祥は16世紀末の蘇我理右衛門(そがりえもん)の銅吹き業にさかのぼるが、1690年(元禄3)に発見し翌91年に稼行に入った別子(べっし)銅山によってわが国産銅量の大半を占めるようになり、近世最大の産銅業者として栄え、かたわらその財力によって両替商も営み、諸家の蔵元(くらもと)、掛屋(かけや)、札差(ふださし)を兼ねた。しかし幕末・維新期には、別子銅山は生産が衰微し、諸貸付は回収不能となり、経営不振に悩んだ。さらに別子銅山が新政府に没収されかけたとき、住友家の大番頭広瀬宰平(さいへい)の交渉によって取り戻すことができた。広瀬は同山の近代化工事を進め、産出量を飛躍的に増加させることに成功し、住友のドル箱に復帰させた。明治期の住友は、統轄機構として1875年(明治8)に住友本店を設立し(1909年に住友総本店と改称)、別子銅山を基礎に事業を拡大したが、樟脳(しょうのう)製造、製茶、製糸、貿易、海運は発展に至らず撤退した。本格的多角化は、広瀬のあと住友本店総理事となった伊庭貞剛(いばさだたけ)以降のことで、銀行、伸銅、倉庫、鋳鋼、電線、肥料の各事業へ進出した。俗に、住友の多角化は関連分野への芋づる的進出の例とされる。反面、精錬量の増大と湿式製銅開始の結果、明治中期以降、別子銅山の精錬所から発生する煙害は深刻化し、地元住民の抗議行動が強まった。1905年(明治38)はるか沖合いにある四阪(しさか)島に精錬所を移転したが、根本的な解決にはならず、技術的解決に成功するまでの長い間、賠償金を支払い続けた。
第一次世界大戦で巨利を得た住友は、他の財閥のように商社活動には進出していなかったため、戦後の反動恐慌による損失を免れ、1921年(大正10)個人経営の住友総本店を住友合資会社へ改組、以後、傘下事業の独立・株式会社化をいっそう進めるとともに、新たに信託、生命保険、海上保険、土地造成、ビル、電力などの事業に進出し、三井、三菱(みつびし)に次ぐ巨大財閥に成長した。住友の運営は、専門経営者である総理事および理事が掌握、徹底した集権制を敷き、番頭政治の典型として著名である。準戦時体制期から軍需の波にのり、住友金属工業を軸に大膨張を遂げた。1937年(昭和12)住友合資会社を株式会社住友本社に改組して持株会社化し、45年の敗戦時には直系、準直系、特殊関係会社合計24社を数えるに至った。
[麻島昭一]
『宮本又次・作道洋太郎編著『住友の経営史的研究』(1979・実教出版)』▽『作道洋太郎編著『住友財閥史』(教育社歴史新書)』▽『作道洋太郎編『日本財閥経営史 住友財閥』(1982・日本経済新聞社)』▽『麻島昭一著『戦間期住友財閥経営史』(1983・東京大学出版会)』
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住友家が支配した財閥。17世紀から経営していた別子銅山は幕末期には衰退したが,維新期に国による接収をまぬかれ,銅山の近代化に成功。日清戦争頃から伸銅・電線・肥料などの産銅関連産業や炭鉱・銀行・鋳鋼・倉庫などにも進出した。銀行・鋳鋼・電線以外の事業を直営していた個人営業の住友総本店は,1921年(大正10)住友合資会社に改組し,さらに直営事業を株式会社として独立させ,持株会社化してコンツェルン形態を整えた。以後も信託・生命保険などに進出したが商社は設立しなかった。37年(昭和12)住友合資は株式会社住友本社に改組されたが,財閥解体によって48年解散した。
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…広義には,家産を基礎とし,同族支配に特徴づけられた企業集団を指すことばで,ロックフェラー財閥,クルップ,ターター財閥,モルガン財閥,クーン=ローブ財閥,ロスチャイルド財閥(ロスチャイルド家),浙江財閥などと使われるが,狭義には,第2次世界大戦前の日本におけるファミリー・コンツェルンfamily Konzernを指す用語である。大は三井財閥,三菱財閥,住友財閥の三大総合財閥から,安田財閥,川崎財閥などの金融財閥,浅野財閥,大倉財閥,古河財閥などの産業財閥,小は数十に及ぶ地方財閥が存在したが,家族ないし同族の出資による持株会社を統轄機関として頂点にもち,それが子会社,孫会社をピラミッド型に持株支配するコンツェルンを形成していた点に共通点がある。第1次世界大戦後とくに1930年代に登場した日産コンツェルン,日窒コンツェルン,日曹コンツェルン,理研コンツェルンなどは,家産に基づく同族支配の性格は薄かったが,コンツェルン形態をとっていたことから新興財閥と呼ばれた。…
※「住友財閥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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