伊賀村(読み)いがむら

日本歴史地名大系 「伊賀村」の解説

伊賀村
いがむら

[現在地名]羽曳野市伊賀一―六丁目・高鷲たかわし五丁目・向野むかいの二―三丁目・野々上ののうえ五丁目・はびきの五丁目

野々上村の西にあり、東西に竹内たけのうち街道が通る。南北朝時代、当地方は楠木正成の勢力下に入り、足利軍との間で激しい戦闘が繰広げられた。この時足利軍に加わって伊賀国出身の部隊が河内に攻め入り、当地に駐屯したことから地名が起こったと伝える。

丹南郡に属し、文禄三年(一五九四)検地では高四五一石余(元文五年「村明細帳」今西家文書)。元和九年(一六二三)大坂定番高木正次(丹南藩)領となり、正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高四五一石余、ほかに山年貢高八斗余、同藩領。


伊賀村
いがむら

[現在地名]三本木町伊賀

三本木宿から南へ尾根づたいの山道を約五キロ、黒川郡大衡おおひら(現大衡村)へと続く山間集落の一つ。かつて奥州街道沿いであったが、明治一七年(一八八四)頃から新国道が西方音無おとなし坂本さかもとを迂回するようになり、往来は少なくなった。志田郡西部の南端、黒川郡境であったので、江戸時代には脱穀取締の役人が配置されていた。北はありふくろ村、西は音無村、南は黒川郡駒場こまば(現大衡村)、東は同郡大松沢おおまつざわ(現大郷町)と接する。


伊賀村
いんかむら

室町初期に存在した日野郡内の村。応永元年(一三九四)八月一日の氏名未詳下文(山内首藤家文書)によると、山内通忠に「伯耆国日野郡内伊賀村」が宛行われており、同年の通忠宛の氏名未詳判物(同文書)に「伯耆国ひのゝこをりいんかの村」と記される。「日野郡史」に載る印賀いんが鎮座楽々福ささふく神社の永正一七年(一五二〇)一〇月一三日の棟札には「印賀之領主」として尼子伊予守経久の名がみえる。村域の比定は史料が乏しく不詳とされるが、藩政期には楽々福神社が鎮座する大宮おおみや村および榎垣内えのきがうち菅沢すげさわ宝谷たからだに折渡おりわたりの四ヵ村は印賀郷と総称されていた(藩史)


伊賀村
いがむら

[現在地名]岡崎市伊賀町

東から西へ伊賀川が湾曲して流れ、村を南と北に分ける。北は井田いだ村、南は能見のみ村に接し足助あすけ街道が南北に通じる。東は稲熊いなぐま村より続く洪積台地で、西の日名ひな村と合わせて矢作川の沖積平野に続く。「和名抄」所載の古代郷額田郡の位賀の名残とみられる。近世を通じて伊賀八幡宮領を除き岡崎藩領額田手永に属す。享和二年書上に高六七〇余石、人別四五一人、うち男二〇八・女二四三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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