改訂新版 世界大百科事典 「伊賀越の敵討」の意味・わかりやすい解説
伊賀越の敵討 (いがごえのかたきうち)
江戸時代の著名な敵討の一つ。備前岡山藩主池田忠雄の家臣に渡辺数馬という者があり,1630年(寛永7)7月その弟源太夫が同藩士河合又五郎に殺された。数馬は又五郎の父半左衛門に引渡しを求めたが応ぜず,又五郎を江戸に逃がし,旗本安藤治右衛門,久世三四郎らがこれをかくまった。池田家では半左衛門を捕らえ,又五郎と交換しようとしたが,旗本側は半左衛門は受け取って又五郎を引き渡さなかった。池田家は幕府に訴えて裁断を求めたが,やがて忠雄は又五郎の処置を遺言して死に,32年岡山池田家は鳥取に国替になった。幕府の命により忠雄の舅元徳島藩主蜂須賀蓬庵(家政)は半左衛門を預かったが,ひそかにこれを殺し,旗本側も又五郎を逃がして,又五郎は奈良の伯父河合勘左衛門方にひそんだ。34年11月7日伯父らとともに総勢約20人で奈良から伊賀を経て江戸に向かう又五郎を,数馬は姉婿荒木又右衛門および若党2名と上野西端の鍵屋の辻に待ち伏せ,ついに又五郎を討ち取った。弟のための敵討は異例であるが,江戸初期にはほかにも例がある。この事件は幕府創立期の大名と旗本の対立,大名の家臣統制の困難を示すものであったが,幕府は35年と63年(寛文3)の〈諸士法度〉で,旗本が他家の犯罪者を庇護することを禁じ,領主の犯罪者追及権を明定した。
→伊賀越道中双六 →伊賀の水月
執筆者:平松 義郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報