敵討(読み)かたきうち

精選版 日本国語大辞典 「敵討」の意味・読み・例文・類語

かたき‐うち【敵討】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 主君や父、夫などが殺された場合に、臣下や近親の者などが、恨みを晴らすために、その相手を殺すこと。あだうち。
    1. [初出の実例]「権の守は聟の敵討とて、一族相催して打立折節」(出典:神道集(1358頃)一〇)
  3. 他人に何かやられたことに対して、仕返しをすること。報復。
    1. [初出の実例]「君のブレイン〔脳〕が平癒(よくな)ったと聞いちゃア、此間の復讐(カタキウチ)をしなくちゃアならん」(出典:当世書生気質(1885‐86)〈坪内逍遙〉一九)

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改訂新版 世界大百科事典 「敵討」の意味・わかりやすい解説

敵討 (かたきうち)

私闘の一形態。

日本の中世社会においては,生存権をふくめた諸権利を自分(個人ではなく集団)の手で守るために実力を行使し,またこれらの諸権利に対する侵害に対して実力で報復する私闘が広く存在した。ここでは,親族集団を中心とし,主従集団など種々の集団のメンバーの攻撃に対する同じ集団に所属するメンバーの実力的復讐行為をすべて敵討と称していた。このような復讐そのもののありかたは,古くから世界諸民族に共通してみられ,種族保存の本能にもとづくものとされているが,日本の場合,親の敵討が他の復讐と異なった特別の観念にささえられ,他民族にみられるような賠償制を定着させることなく近代にまで継続したところにその特殊性がある。それゆえ通常この親に代表される限定された範囲の者の殺害行為に対する子(男子)などの血の復讐(血讐)をとくに〈敵討〉と称している。

 親の敵討が一貫して子の義務とされ,その行為が道理と考えられた思想上の根拠として通常あげられる〈不俱戴天〉(《礼記》)の観念は,中世においてはなお未定着であった。この敵討の義務について,折口信夫は,殺された者が血を流した神に対する罪を,死者のかわりにその親族が,加害者を殺すことによってあがなう一種の祓の義務に求めている。この供犠観にもとづく敵討も古い時代にあっては行われたと推定されるが,鎌倉時代においては,曾我兄弟の敵討が〈父の死骸の恥をそそぐ〉ことを目的としたように〈死骸〉の恥をはらすために行われるのが一般であった。この観念は,死骸のありかたはその人の死後の永遠の世界を決定するという考え方にもとづくもので,古い民族的信仰に根をもつものであった。そしてこのいわば祖霊の鎮魂を目的とした敵討は,家の観念と深く結びついており,すでに《古事記》には父の敵討をした弟が兄にかわって家の相続者となった例がみられるように,親の敵討は,家の継承者たる子の義務とされたのである。とくに武家社会においては,武士の倫理と結びついて親の敵討の義務は不動のものとなり,さらにこの家の観念を基礎にうまれた主従倫理の確立とともに主人の敵討もしだいに従者の義務とされるようになった。このように親の敵討が他の血讐と区別され社会道徳の性格をもつと,相手のとどめをさすというような敵討の作法,敵持(かたきもち)の作法が生みだされるが,なお敵討に際し,相手の死骸を損壊する〈さいなみ〉を加えている例も多くみられ,敵討の古形がそこに継承されていることが知られる。鎌倉幕府室町幕府ともに,敵討に代表される私的復讐を制限し,これを国家裁判権のなかに吸収しようとするが,強い自力救済観念のため成功しなかった。この敵討を全面的に禁止したのは戦国大名だが,近世初頭,江戸幕府は親に対する子の敵討にほぼ限定し,武士の倫理と結びついた最も強い復讐意識を生かすかたちで公認したのである。
執筆者:

1597年(慶長2)ごろの《長宗我部元親百箇条》は,親,兄の敵を子,弟が討つことを許し,目上の者のためという制限を付して敵討を認めた。江戸幕府も制限つきで是認するという立場をとり,江戸時代初期の《板倉氏新式目》には,親の敵討は許すが,神社仏閣を避けるべき規定が見られる。また町奉行所には元禄(1688-1704)以前,敵討の届を帳付(ちようづけ)する実務があったことが知られる。江戸時代後半期には幕府法曹吏員の間に,慣習,先例による敵討についての基本的な法制が形成されていたと考えられる。敵討は俗に仇討,意趣討などと呼ばれたが,幕府法上は敵討と称し,父母伯叔父兄姉など目上の者の敵を討つ場合に限られた。目下の者が殺害されたときには,親族は通常の刑事裁判の手続により,下手人の吟味を願い出るべきであった。武士は主君の許可を得て免状を受け,他領に出立するにはさらに主君より幕府の三奉行所に敵討許可の旨を届け,町奉行所の帳簿(敵討帳および言上帳)に記載され,町奉行所からその書替(かきかえ)(謄本)を受け,それを携帯する必要があった。敵を発見するとその地の支配役所に届け,役所は江戸に処置をうかがう。江戸では町奉行所の帳簿と照合して,敵討に相違がなければ敵討をさせるべき旨の指令を下した。現地では敵を捕らえ,竹矢来などを設けて双方を切り結ばせた。このような余裕がなければ路上で名のりをあげて切り掛かってもよいが,討ち止めたら現地の役所から江戸にうかがって処置した。討手を助ける助太刀(すけだち)も幕府の奉行所に帳付を願うべきであった。敵討を禁止された場所は,禁裏御所築地内,江戸城曲輪(くるわ)内,寛永寺・増上寺両山内であった。以上の敵討であれば,敵を切り殺しても殺人の刑事責任を負わない。届をしなかった敵討は一応の取調べに服し,揚座敷に収監されるなど,不名誉な待遇を受けるが,敵討に相違なければ無罪になった。庶民も武士と同様の手続で敵討ができるが,領主は容易にこれを許可しなかった。しかしときとともに庶民の敵討が多くなっている。討手と敵の身分の差は問われないのであり,1723年(享保8)の例では討手は百姓の娘2人,敵は武士であった。敵を探すのに要した年月の最長は1853年(嘉永6)の例の53年間であるが,20~30年の例も少なくない。敵に切り殺される返討(かえりうち)になってもやむをえない。敵の親族が再敵討(またがたきうち)をすることは許されない。返討になって,その親族が又候敵討(またぞろかたきうち)を願うことはできなかった。敵討は一回勝負であった。

 平出鏗二郎の《敵討》によれば江戸時代を通じて敵討は100件余を知りうるが,このように比較的後世まで復讐が頻繁に行われたのには理由がある。まず武士道の勇武,忠義の尊重で,敵討を武士の義務とし,また儒教の教説もこれを正当化した。儒教は父の讐(かたき)は〈不俱戴天〉としつつ,国家的公刑罰との衝突を避けるため,明律,清律では祖父母,父母の讐を殺せば杖六十を科し,原則として違法としたうえで,即時に復讐したとき,およびあらかじめ官に告げて許可を得た場合を例外的に無罪とした。江戸幕府は敵討を原則的には是認しつつ,公の秩序を乱さぬよう各種の制限を付したのである。さらに封建体制下の裁判権,捜査権の分裂から,敵の捜査処罰を官に期待できない事情も自力救済としての敵討を合法化したのであった。江戸時代初期には1634年(寛永11)の伊賀越の敵討,72年(寛文12)の江戸市谷浄瑠璃坂(じようるりざか)の敵討,および世上では敵討と見られていた1702年(元禄15)の赤穂浪士一件などのように,集団的な親族,縁故者,家臣などの争闘も見られるが,しだいに家族単位あるいは個人的なものとなった。同時に自発性は薄れて,倫理,恥,外聞などにもとづく社会的圧迫が強くなった。

明治初年にも敵討は行われ,〈仮刑律〉(1868)は旧幕期と同じく原則として敵討を許した。〈新律綱領〉(1871)は敵討を原則として違法とする中国法の立場に転じ,笞五十とした。司法卿江藤新平は1873年(明治6)2月7日復讐禁止令を公布して敵討を禁じ,実行すれば相当の罪科に処すべきことを令した。新律綱領はその結果改正され,復讐は〈臨時奏請〉して処置することとなった。〈改定律例〉(1873)は祖父母,父母に対する〈行兇人(こうきようにん)〉(敵)を殺すことは謀殺とし,斬をもって処罰することとしたが,即時に敵を討つことは無罪であり,全面的な禁止ではなかった。明治初年の敵討には1871年の加賀藩執政本多政均(まさひさ)家臣の事件に見られるように,維新期の派閥,政論の対立による暗殺とその報復という面があり,国家的公刑罰権の確立とともに,この種の紛争を打ち切るためにも,政府は復讐禁止を目ざしたのである。旧刑法(1880)にはもはや復讐に関する規定はなく,謀殺罪の対象とし,これによって復讐はまったく禁止された。
仇討物 →復讐
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「敵討」の意味・わかりやすい解説

敵討
かたきうち

「あだうち」ともいい、普通、君父を殺した者を討ち取って怨(うら)みを晴らすことを意味する。まれには母、祖父母、夫、妻、子、兄弟姉妹、伯叔父のため、あるいは師、友人のためにもこれを行った例がある。一種の私刑で、法の権威が確立するまでのいわばやむをえない風習であるので、古くは東西両洋の各地にみられ、現在でも未開社会では行われる場合がある。文明社会でも、暴力団などにそれが行われることは、われわれの見聞するとおりである。しかしわが国では、1873年(明治6)2月法律によって禁止されたので、社会的に公認された敵討はもはや存在しない。それが社会的に公認もしくは賞賛されたのは封建時代、ことに江戸時代で、記録に残る件数だけでも100件を超えるから、実際ははるかにそれより多かったであろう。そのなかでとくに有名になったのは、1702年(元禄15)12月に決行された大石良雄(よしお)以下47人による赤穂浪士(あこうろうし)事件で、この事件を題材にした歌舞伎(かぶき)・浄瑠璃(じょうるり)の脚本だけでも、竹田出雲(いずも)作『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』をはじめ約400本を数え、江戸時代の芝居の正月興行はこの忠臣蔵か曽我物(そがもの)を上演するのを吉例としていた。近年まで、映画や芝居の観客動員が不振になると忠臣蔵をピンチヒッターとして起用すれば景気が持ち直すとされ、忠臣蔵はこの世界のドル箱的存在とみられてきた。

 そのように、忠臣蔵の影響力は封建時代に限られていないが、敵討そのものも封建時代特有のものではなかった。曽我兄弟の敵討は1193年(建久4)富士の裾野(すその)を舞台として行われ、それが『曽我物語』をはじめとする多くの物語、浄瑠璃、謡曲などの題材となった。曽我事件は、赤穂浪士事件が主君のための集団的敵討であったのに対して父のための兄弟2人の敵討であった点が異なっているが、記紀にみえる安康(あんこう)天皇3年に眉輪(まよわ)王が安康天皇を弑(しい)した事件も、眉輪王の父大草皇子を殺したのに対する敵討であった。この事件は5世紀中ごろの話で、わが国における敵討の記録としてはもっとも古い。その後、曽我兄弟の事件があり、1332年(元弘2)ごろ、元弘(げんこう)の変の影響を受けて斬(き)られた日野資朝(すけとも)の子の阿新(くまわか)は、佐渡で父を殺した本間山城入道の次男三郎を斬って島を脱出した。そのいきさつは『太平記』にくわしいが、これも父のための敵討として知られている。

 したがって、敵討が封建時代特有の習俗でなかったことが明らかであるが、これを封建時代の美徳として推賞する風潮がかつてはあった。日本弘道会の開祖泊翁(はくおう)西村茂樹(しげき)は、1891年(明治24)2月の明治会演説で「本邦の三美風」として復讐(ふくしゅう)、自殺、帯刀(たいとう)を取り上げ、そのうちの復讐は俗語の敵討であって、このことは『礼記(らいき)』の「父ノ讐(あだ)ハ與(とも)ニ天ヲ戴(いただ)カズ、兄弟ノ讐ハ兵ニ反セズ、交遊ノ讐ハ国ヲ同ジウセズ」の語より出たに相違ないが、「本邦人民の忠孝に厚くして勇武に長じ、恥を知るの深きよりして之(これ)を実行する者多く、世人も亦(また)之を感称して措(お)かざること」であって、「忠臣孝子の至情にして又(また)天理に協(かな)ふ所の善行」であると評価している。泊翁の意図は「国民の志気を奮興し、国威の拡張を助くべき」風俗としてこれを推賞しているのであって、いうまでもなく、これをそのまま現在に復活しようというのではない。

[古川哲史]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「敵討」の意味・わかりやすい解説

敵討
かたきうち

「あだうち」ともいい,「仇討」「復讐」などの字をあてる。主人や親兄弟を殺した者を討取って恨みを晴らすこと。古代から行われ,「記紀」にすでに,安康天皇3年,眉輪王が父大草香皇子の殺されたのに対し,安康天皇を弑したという記事がみえる。鎌倉,室町時代に入ると,天慶3 (940) 年平貞盛が平将門を討った事件をはじめとして,源頼朝が長田忠致を滅ぼしたり,日野阿新が父の仇を報いたりしたなど敵討の事例も多い。その最も有名なものは建久4 (1193) 年曾我祐成,時致兄弟が工藤祐経を討った事件で,これは『曾我物語』として著名。江戸時代になると,一般に私闘は厳禁されたが,敵討のみは封建的道徳と武士道的観念から,かえって黙認奨励され,幕府諸藩からの特別の許しを得て,世間にも美談として称賛された。この時代,寛永 11 (1634) 年伊賀上野,寛文 12 (72) 年江戸浄瑠璃坂をはじめとして,全部で 104件以上の敵討が知られているが,そのなかでいちばん有名なものは,元禄 15 (1702) 年 12月の赤穂浪士の吉良邸討入り (→赤穂事件 ) である。この頃を境として,敵討は百姓や町人の間にも盛んに行われるようになり,1873年,法の整備に伴い復讐禁止令が出された。 (→女敵討〈めがたきうち〉)

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百科事典マイペディア 「敵討」の意味・わかりやすい解説

敵討【かたきうち】

仇討(あだうち)とも。私闘の一形態で,親属集団,主従集団など種々の集団のメンバーへの攻撃に対して同じ集団に属するメンバーが実力的復讐(ふくしゅう)行為をすること。書紀にみえる眉輪(まよわ)王が父の仇安康天皇を殺した記事が日本では最も古く,鎌倉時代の曾我兄弟,江戸時代の赤穂浪士荒木又右衛門の敵討などが有名。公刑罰主義の立場から江戸幕府は,敵討を制限して目上のものが殺された場合のみ公許した。しかし敵討を忠孝の美挙とする思想から黙認されることも多く,武士以外のものも含めて敵討の件数は江戸時代を通じて100以上に達した。1873年に復讐禁止令が公布され,1880年旧刑法の制定で禁止。なお敵に殺される場合を返討(かえりうち),姦夫(かんぷ)姦婦を殺すことを妻敵討(めがたきうち)という。
→関連項目私刑

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旺文社日本史事典 三訂版 「敵討」の解説

敵討
かたきうち

報復的私刑の一種
「あだうち」ともいう。親兄弟の復讐のほか,近世には主君の復讐も出現した。江戸時代,封建的道徳と武士道的観念から奨励,美談視された。赤穂四十七士の敵討は有名。江戸後期には武士だけでなく,百姓・町人の敵討も多い。1873年禁止。

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世界大百科事典(旧版)内の敵討の言及

【仇討物】より

敵討を主題とした文学・芸能の一系統。敵討物(かたきうちもの)ともいう。…

【妻敵討】より

…姦通をした姦夫を本夫が殺害すること。中世においては敵討,妻敵討と併称されて盛んに行われた。《御成敗式目》の密懐(びつかい)法(34条)などの姦夫の刑罰では所領没収刑などが規定されているが,一般社会においては,自力救済観念に基づき,本夫が姦夫を討つべしとする社会通念が強く存在し,本夫が妻のもとに通ってくる姦夫を自宅内で現状をおさえ殺害する妻敵討が慣習として定着していた。…

※「敵討」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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